島崎藤村 「破戒」2

 「破戒」のクライマックスは、何と言っても丑松が生徒たちの前で穢多であることを告白する場面であるが、彼はなぜ父の「戒」を破って告白する道を選んだのであろうか。

 小説を一読した印象からすると、猪子蓮太郎の死がその要因である。この死をきっかけに丑松は、穢多であることを告白して世間で堂々と活躍している蓮太郎と自分を比べ、自分は偽りの生涯を生きていると痛切に感じ、自分自身の人生を歩き出すために告白しようという気持ちになるのである。これは蓮太郎の死がきっかけとなってはいるが、丑松の意志が重要な役割を演じているので内発的な要因と言える。

 一方小説を読んだ者なら誰しも感じると思うが、勤務する学校で「丑松が穢多ではないか」という噂が流れ出すと、丑松は心理的に追い詰められていく。このまま隠しているのは難しい。であればいっそ自分から告白してやれ。「自分の素性を傍人に疑われて嶮しい目で見られるのに耐えられなくなって、ついに自分から進んで自己の素性を告白するに至る」(正宗白鳥「懺悔文学」)。このような見方は、個人の意志よりも環境(外部)の力がより影響力を持ったとみなすものであるから、告白は外発的な要因によるものと考えられる。

 正宗白鳥のような極端な見方をする者もいるが、多くの者は内発的な要因と外発的な要因の合わさったものが本当の原因だ、と考えているのではないだろうか。しかし外発的な要因として挙げたものが、内発的な要因として挙げたものよりも結果にどれだけ影響を与えたかを測定することは不可能に近い。例えば科学の実験で、ある結果をもたらした原因はAとBの複合したものだ、だがその複合の比率は曖昧で次に同じような実験をしたとしても同じ結果を得られるかどうかは分からない、などというレポートがありえるだろうか。およそ客観的とは言えまい。

 しかし我々はこの客観的とは言えないもので刑罰の軽重を決め、時には人を死刑にもするのだ。人は原因が分からないということに耐えられない、だからそれらしいことを裁判官なり誰なりが拵えて、エンドマークをつけてあげる。漫画『家栽の人』の中で登場人物の一人が言っていたと記憶しているが、その発言の前提となっているのは、人間の行為を客観的に説明することの不可能性だ。なぜ丑松が「戒」を破ったか、なぜある人が犯罪を犯したか、なぜ僕はこのブログを書いているのか、なぜ今日の昼飯に僕が牛丼ではなく焼きそばを食べたのか、そんなことは分かりっこないのだ。

 そうだとすれば、どんな偉い哲学者の言葉も、どんなに優れた学者の言葉も、それが現実の人間の行為をつまりは実際に生きている人間について説明しようとしているものであればすべて眉唾物だということになる。それ以外を扱う学問の中には客観性を備えているように思われるものもあるが、実際に生きている人間を知らないで、生まれて死んでいく自分自身のことを知らないで他の何を知ろうというのだろうか。