罪と罰89(2-7)

 「あー、神父様!言葉はしょせん言葉なんじゃないですか!許すって!やっぱり彼は今日酔っぱらって帰って来たでしょうよ。轢かれてなかったら。着てるシャツが唯一ので、そこら中擦れ切れてて、ぼろぼろもいいとこ。あんな風になすべきこともせず横になっていたでしょうね。私ときたら夜明けまで水の中でばちゃばちゃやっていたでしょうよ。彼の着古しと子どものを洗うんです。その後窓の外に干して、夜が明ければすぐ縫物にもとりかかったでしょうに。そんな風にして私の夜は過ぎるんです!・・それなのになぜ今許しを口にしなければならないんですか!しかも許して許してきたんですから!」深い、痛ましい咳が彼女の発言を遮った。彼女は咳払いして痰をハンカチに吐き出すと司祭に見せるためそれを突き出した。痛む胸を片方の腕で軽く抑えつつ。ハンカチは血だらけであった・・・

 

 司祭はうなだれて言葉がなかった。

 

 マルメラードフは最期の時を迎えていた。彼は、自分の上に再び屈みこんだカテリーナ・イヴァーノヴナの顔から目を離さずにいた。彼はまだ彼女に何か言いたかった。彼はどうにか舌を動かして不明瞭な言葉を口に出しかけた。だが自分に許しを求めていることを理解したカテリーナ・イヴァーノヴナは、すぐさま命令口調で強く言った。

 

 「黙りなさい!必要ありません!・・言いたいことは分かっています!・・」すると病人は黙った。だが、ちょうどその時、迷走する彼の視線がドアのところで止まった。彼はソーニャを見つけた・・・。

 

 その時まで彼は彼女の存在に気付いていなかった。彼女が隅で目立たないようにしていたからだ。

 

 「あれは誰?あれは誰?」息切れするかすれ声で彼は突然言った。不安に駆られ、驚愕した目で娘が立っているドアの方を示し、起き上がろうと努めつつ。

 

 「横になってなさい!横になってなさいって!」とカテリーナ・イヴァーノヴナが怒鳴りかけた。

 

 だが彼は尋常ならざる精神力で腕にもたれかかることに成功した。彼はそこばくの間おずおずと娘の方をじっと見ていた。まるで彼女だと分からないかのように。実際彼はまだ一度も彼女がそんな格好でいるのを見たことがなかった。突然彼は彼女だと認識した。卑屈な様子で、打ちひしがれ、めかしこんで恥じ入り、死にゆく父に別れを告げる自分の順番が来るのを、感情を押し殺して待ち設けているのが彼女だと。永遠の苦しみが彼の表情に刻まれた。

 

 「ソーニャ!娘よ!許しておくれ!」そう彼は叫んで彼女に手を差し伸べかけたが、支えを失ったことで、ソファーからどすーんと転落した。顔面から床へもろにだった。彼を起こそうとさっと人々が集まり寝かせたが、彼はすでに息をしていなかった。ソーニャは弱々しく叫ぶと、駆け寄って彼を抱きしめ、その姿勢のまま動かなくなってしまった。彼は彼女の腕の中で亡くなった。 

 

 「自分の願いを遂げ満足でしょう!」カテリーナ・イヴァーノヴナは夫の遺体を見て大声で言った。「さあそれで今、何をしたらいいのよ!私はどうやって彼の葬式をしたらいいの!だいたいどうやって彼らを、彼らを明日からどうやって養っていけばいいの!」

 

 ラスコーリニコフがカテリーナ・イヴァーノヴナの元へ歩み寄った。

 

 「カテリーナ・イヴァーノヴナ」彼は彼女に語り始めた。「先週あなたの亡くなられた旦那さんが僕にその全人生とすべての事情を話してくれました・・・信じていただきたいのですが、彼はあなたのことを熱狂的な尊敬を込めて語っていましたよ。その晩から、彼があなた方みんなに忠実で、特別あなたを、カテリーナ・イヴァーノヴナ、尊敬し愛しているのを僕が知った時から、自分の不幸な弱さにもかかわらずです、その晩から、僕たちは親友になりました・・・。どうか今僕に・・・亡き友人に対する借りを返させていただきたいのです。今ここに・・・20ルーブルあると思います。それでもしこれがあなた方の助けになるのなら、その時は・・・僕は・・・つまりその、また来ます。必ず立ち寄りますから・・・ひょっとしたらもう明日にも来るかもしれません・・・さようなら!」

 

 すると彼は、なるべく早く階段に出ようと群衆の間を押しのけ押しのけ、さっと部屋から出て行ってしまった。だが群衆のただ中で突然ニコヂーム・フォミーチとばったり出会った。不幸を知り自ら現場を仕切ろうと来ていたのだ。警察署での一幕以来彼らは会っていなかった。だがニコヂーム・フォミーチは瞬時に彼と認識した。

 

 「おや、なぜあなたが?」彼はラスコーリニコフに尋ねた。

 

 「亡くなりました。」ラスコーリニコフは答えた。「医者が来て、司祭が来て、すべて滞りなく行われました。あの大変哀れな女性を困らせないでやってください。それでなくても彼女は肺病を患っていますから。彼女を元気づけてやってください。もしできるのであれば・・・だってあなたはいい人でしょう。僕は知っていますよ・・・」薄笑いを浮かべて彼は言い足した。相手の目を真っすぐ見つつ。

 

 「それはそうとあなた血が付いてしまっていますね。」ランプの明かりによってラスコーリニコフのチョッキに付いたばかりの斑点がいくつかあるのを発見して、ニコヂーム・フォミーチが指摘した。

 

 「ええ。付いてしまいました・・・僕なんか体中血まみれですよ。」どこかしらいつにない様子でラスコーリニコフが言った。その後笑顔になると、頭を下げ、階段を下り始めた。

 

 彼は静かに下りて行った。急くことなく、全身熱病に浮かされたような興奮につつまれ、そして、ある新しい無辺の、満ち足りた力強い生(それは突如訪れた)の感覚に自分が満たされていることを認識しないままに。その感覚は、死刑が決まっていた囚人に突然予期せぬ赦免が通告される時の感覚に近いかもしれなかった。階段の半ばで帰途についた司祭が彼に追いついた。ラスコーリニコフは彼と無言のお辞儀を交わすと、黙って彼に道を譲った。もう最後の階段を下っていた時、彼は突然背後に慌ただしい足音を聞いた。誰かが彼を追ってきたのだ。それはポーレニカであった。彼女は彼を追って走りつつ、彼に呼びかけた。「あのう!あのう!」

 

 彼は彼女の方に向き直った。彼女は最後の階段を駆け下り、彼の真ん前、彼より一段上のところで立ち止まった。ぼんやりとした明かりが中庭から差し込んでいた。ラスコーリニコフはやせているが、可愛らしい女の子の顔を見分けた。彼に微笑みかけ、子供っぽくうれしそうに彼の方を見ていた。彼女は頼まれて走ってきたのだが、どうやら彼女自身それが大層気に入っているようであった。

 

 「あのう、お名前は何ていうんですか?・・それから、どこに住んでいますか?」息切れがする声で、彼女は急いで尋ねた。

 

 彼は両手を彼女の肩の上に置き、どこか満足気に彼女を見ていた。彼女を見ているのが彼にはそれほどに心地よかった。彼自身なぜそうなのか知らなかった。

 

 「ところで誰があなたを寄こしたのかな?」

 

 「私を寄こしたのはお姉ちゃんのソーニャです。」もっとうれしそうな笑顔になりながら女の子は答えた。

 

 「僕もそうだと知ってたよ。あなたを寄こしたのはおねえちゃんのソーニャだって。」

 

 「お母さんも私を寄こしました。お姉ちゃんのソーニャが送り出そうとした時、お母さんも寄ってきて言ったんです。“なるべく早く走って、ポーレニカ!”って。」

 

 「お姉ちゃんのソーニャのことは愛しているんですか?」

 

 「誰よりも愛しています!」ある特別な確信をもってポーレニカが言った。すると彼女の笑顔が突然ぐっと真面目なものになった。

 

 「ところで僕のことは愛するようになりますか?」

 

 答えの代わりに、彼は自分の方へ寄って来る女の子の顔とふっくらとした唇を認めた。それは無邪気に伸びてきて彼にキスをした。突然マッチのようにか細い彼女の両腕が彼を強く強く抱きしめた。頭は彼の肩に預けていた。すると女の子は声を出さずに泣き始めた。顔を彼に一層強く押しつけながら。

 

 「お父さんがかわいそう!」間もなく彼女は、泣きぬれた顔を上げる際、手で涙を拭いつつ言った。「近頃はこんな不幸ばかり。」彼女は不意に、やけにしっかりとした態度で言葉を継いだ。それは子どもが、突然大人のように話そうとする時、背伸びして取る例の態度であった。

 

 「ところでお父さんはあなたたちのことは愛していましたか?」

 

 「彼は私たちの中で誰よりもリーダチカのことを愛していました。」彼女は笑顔を見せることもなく、非常に真面目な様子で話を続けた。もはや完全に大人同士の会話のようであった。「愛していたのは彼女が幼いからです。それに病気を持っているので。だから彼女にはいつもお土産を持ってきていました。ところで彼は私たちに読むことを、私には文法と神学を教えてくれました。」彼女は胸を張って言い足した。「お母さんは何も言わなかったけど、彼女がこのことをとても喜んでいるのをみんな知っていました。お父さんも知っていました。お母さんは私にフランス語を教えたがっています。私はもう教育を受けてもいい年頃なので。」

 

 「ところであなたたちはお祈りはできるんですか?」

 

 「おー、それはもちろんできます!もう大分前から。私はもう大きいですから、自分一人で声に出さずに祈ります。コーリャとリーダチカはお母さんと一緒に声に出してやります。まず“至聖生神女様”と唱えて、それからもう一つのお祈りを唱えます。“神よ、姉のソーニャを許し、祝福し給え”、それからもう一度、“神よ、我らの別の父を許し、祝福し給え”、というのも私たちの年上のお父さんはすでに亡くなっていて、今のは私たちにとっては別のですから。でも私たちは亡くなった方のこともお祈りします。」

 

 「ポーレチカ、僕はロジオンと言います。いつか僕のことも祈ってください。“僕ロジオンも”それだけでいいです。」

 

 「これから先ずっとあなたのことも祈ります。」女の子は熱意を込めてそう言った。そして突然再び笑い出すと、彼に飛びついて再び強く抱きしめた。

 

 ラスコーリニコフは彼女に自分の名前を告げ、住所を教えると、明日必ず立ち寄ることを約束した。女の子は、彼によってすっかり有頂天にさせられて立ち去った。彼が通りに出たのは10時過ぎであった。5分後彼は橋の上にいた。それは先刻女がそこから身投げしたまさにあの橋であった。

 

 “沢山だ!――彼はきっぱりと真面目な調子で言った。――幻影よ消えろ、まやかしの恐怖よ去れ、幽霊どもは消え失せろ!・・生がある!今俺が生きていなかったとでも?俺の生は古びたばあさんと共に死んじまったわけじゃなかった!彼女の冥福を祈ります、そして――いやもう結構、ばあさん、死ぬべき時が来ていたのだ!今や理性と光の王国が・・・それに意志と、力の・・・さあどうなるか見てみよう!試してみようじゃないか!――彼は傲慢な調子で続けた。それはまるで何かしら闇の力に向かって話しかけ、それに挑戦しているかのようであった。――だって俺はすでに1アルシンの空間で生きることに同意したんだから!

 

 ・・・俺は今とても弱っている。だが・・・どうやら病はすべて消え去ったようだ。先刻家を出た時、そうなることは分かっていたんだ。それはそうと、ポチンコーフの建物はすぐそこだ。必ずラズミーヒンの元へ行かねば。たとえ近くでなかったとしてもだ・・・賭けには勝たせてやれ!・・。彼には笑わせてやろう。――そんなことは何でもない。させておけ!・・活力だ、活力が必要だ。活力が無くては何も始まらん。活力は活力をもってして獲得せねばならない。このことなんだ、連中が分かっていないのは。”――誇らしげな様子で自信満々にそう付け加えると、彼はよたよたした足取りで橋を後にした。誇りと自信は彼の中で一分ごとにふくらんでいった。1分経つ度に1分前の自分とはすでに異なるといった有様であった。しかしこれほど彼を激変させた特別なものとは一体何だったのか?彼自身にも分からなかった。溺れて藁をつかんでいたような男に、自分も“生きていいんだ、まだ生がある、老婆と共に自分の生が失われてしまったわけではなかった”、と突然思われた。もしかすると彼は結論を急ぎすぎたかもしれなかったが、そのことに思い至ってはいなかった。

 

 “だが僕ロジオンのことを祈るよう頼んだな。――突然頭の中で閃いた。――ふむそれは・・・万一に備えてのことだ!”――彼はそう付け加えると、その場で自分のした子供じみた悪ふざけのことを自分でも笑い出した。彼は最高の気分だった。