罪と罰91(3-1)

 ラスコーリニコフは起き上がるとソファの上に腰かけた。

 

 彼はラズミーヒンに対し軽く手を振った。母と妹に向けられた彼のとりとめのない、熱い慰めの言葉の奔流を制止するためである。そして彼ら二人の手を取り、二分ばかり黙って、ある時は一方の、またある時は他方の顔をじっと見た。母は彼の視線に驚愕した。その視線には苦しみに至るほどの強い感情がにじみ出ていた。だが同時に確固たる何か、まるで理性を欠いてさえいるような何かが存在していた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣き出した。

 

 アヴドーチヤ・ロマーノヴナは青ざめていた。彼女の手は兄の手の中で震えていた。

 

 「帰ってください・・・彼と一緒に。」ラズミーヒンを示しながら、彼は途切れ途切れに言った。「また明日。明日にはすべてが・・・大分前に着いたんですか?」

 

 「夜だよ、ロージャ。」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが答えた。「汽車がとんでもなく遅れてね。でもロージャ、私は今やもう何としてもお前から離れませんからね!ここで並んで寝ますよ・・・」

 

 「僕を苦しめないでください!」いらいらして手を振ると彼は言った。

 

 「僕が彼のとこに残ります!」ラズミーヒンが大声で言った。「1分だって彼の元を離れやしません。向こうにいる客のことなんて何もかも知ったことか。怒るにまかせておけ!向こうじゃ僕の叔父が仕切ってくれていますから。」

 

 「なんとお礼を申し上げればいいのやら!」ラズミーヒンの手を再び握りプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いかけると、ラスコーリニコフが再度それを遮った。

 

 「無理だ。無理です。」いらいらして彼は繰り返した。「苦しめないでください!十分です。出てってください・・・耐えられません!・・」

 

 「行きましょう。母さん。1分だけでも部屋から出ましょう。」不安を感じたドゥーニャがささやいた。「私たちが彼を苦しめていることは確かだわ。」

 

 「息子をちょっとでも見ちゃいけないなんてことある?三年ぶりだというのに!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣き出した。

 

 「待ってください!」彼は彼らを再び呼び止めた。「あなたたちは話の腰を折ってばかりだ。こっちは頭が混乱する・・・ルージンには会ったんですか?」

 

 「いいえ、ロージャ、でも彼はもう私たちが着いたことを知ってます。聞きましたよ、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィチが親切にも今日お前を訪ねて来たって。」いくらか気後れしつつプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが付け加えた。

 

 「ええ・・・そう親切にもね・・・ドゥーニャ、ルージンにさっき言ってやったよ。階段から落とすぞって。そんで奴を追っ払ってやった・・・」

 

 「ロージャ、お前なんてことを!お前はきっと・・・お前は言いたくないんだろ」驚いてプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いかけたが、ドゥーニャを見て止めた。

 

 アヴドーチヤ・ロマーノヴナはじっと兄を見つめ、その先を待った。二人はすでにナスターシアから一悶着あったことついて聞かされていた。彼女が理解し、伝えうる限りにおいて。そして半信半疑で待つ間、悩み抜いてへとへとになっていたのだった。

 

 「ドゥーニャ」ラスコーリニコフはどうにか続けた。「僕はこの結婚に反対だ。だからお前は、明日にも、話す機会があり次第、ルージンに断りを入れてさっさと帰ってもらうようにしなければならない。」

 

 「何てことを!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。

 

 「兄さん、あきれちゃうわね、何を言うの!」かっとなってアヴドーチヤ・ロマーノヴナ言いかけたが、すぐさま自制した。「きっと今は満足な状態じゃないのよ。疲れているんだわ。」と彼女は穏やかに言った。

 

 「うわ言だとでも?そうじゃない・・・お前は僕のためにルージンと結婚しようとしている。だが僕は犠牲なんて受け取らないよ。だから明日までに手紙を書くんだ・・・断りの・・・朝僕に読ませてくれ。それでお仕舞さ!」

 

 「そんなことできません!」腹を立てた娘が叫んだ。「どんな権利があって・・・」

 

 「ドゥーネチカ、お前もかっとなりやすいよ。止めなさい。明日・・・・分からないはずないわね・・・」怖くなった母が、ドゥーニャの元へさっと寄りながら言った。 「ああ、出て行った方がいいわね!」

 

 「うわ言さ!」酔ったラズミーヒンが大声でしゃべり出した。「そうじゃなきゃできるかって!明日にはこんなでたらめは全て抜け落ちるんでしょうが・・・ですが今日彼は実際彼を追い出しましたよ。それは確かにその通りです。まあその、あの人は怒ってましたけど・・・ここで大いに語って、知識をひけらかして、そんで消えちゃいました。へしゃんとなって・・・」

 

 「それじゃ本当なのね?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが叫んだ。

 

 「また明日、兄さん」憐れむようにドゥーニャが言った。「行きましょう、母さん・・・じゃあね、ロージャ!」

 

 「いいか、お前」彼は最後の力を振り絞って、後ろから繰り返した。「僕は熱に浮かされて言ってるんじゃない。この結婚は卑劣だ。仮に僕が卑劣漢だとしても、お前は駄目だ・・・一人誰かが・・・僕は卑劣漢だが、そういうことをする妹を妹だと見なすつもりはない。僕かルージンかだ!行ってください・・・」

 

 「頭おかしいぞ!何様なんだ!」ラズミーヒンが吠えだした。だがラスコーリニコフはもう答えようとしなかった。ひょっとすると答えることすらできなかったのかもしれない。彼はソファの上に横になると、疲労困憊の体で壁の方に顔を向けてしまった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは興味深そうににラズミーヒンの方に視線を向けていたのだが、その黒い瞳が閃いた。ラズミーヒンはその視線を受けびくりとさえした。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは打ちのめされたようにして立っていた。

 

 「どうしたってここを離れるわけにはいきません!」と彼女がラズミーヒンにささやいた。ほとんど絶望している体であった。「私はここに残ります。どこかしらで・・・ドゥーニャを連れて行ってください。」

 

 「すべて台無しにしてしまいますよ!」かっとなったラズミーヒンがやはりささやきで返した。「せめて階段に出ましょう。ナスターシア、明かり頼む!誓って言いますがね」彼は小声で続けた。すでに階段上だった。「さっき我々を、僕と医者を殴りかねなかったんですよ!分かりますか?医者を、ですよ!だから刺激しないよう彼は譲って引き上げたんです。僕は見張るために下に残りました。でも彼はすぐ服を着てこっそり出てったんです。今回もこっそり出ていきますよ。刺激するようだと。夜中に。そして自分を害するような真似だってしかねません・・・」

 

 「おー、なんてことを!」

 

 「それにアヴドーチヤ・ロマーノヴナをあなたなしで一人で宿に残すことはできません!あなた方がどこに泊まっているのか考えてください!あの卑劣漢、ピョートル・ペトローヴィチがあなた達にもっとましな部屋を取ってあげれなかったなんてことありますかね・・・でも、ほら、私は少々酔っぱらっておりまして、だからその・・・口が悪くなっております。気にしないでください・・・。」

 

 「ですけど私はここの大家さんのとこへ行きます。」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは譲らなかった。「私とドゥーニャに一晩過ごせる場所をなんとしても貸してもらえるようお願いします。あんな風にして彼を残しておけません。できませんから!」

 

 こんなことを言いながら彼らは階段、踊り場、まさにその大家のドアの前に立っていた。ナスターシアは彼らを下の踏み段から照らしていた。ラズミーヒンは異常なくらい興奮していた。すでに30分前、ラスコーリニコフを家に送っている時、彼は度を越して口が軽くなっており、自身それを認めてもいたが、元気であることこの上なく、ほとんどすがすがしくさえあった。その晩飲み干された馬鹿げた酒量にもかかわらず。今や彼の状態は有頂天のようなものにさえ近かった。また同時に飲み干した酒が再び一気に二倍の力でもって彼の頭に襲い掛かったようでもあった。彼は二人のレディと一緒にそこに立っていたのだが、二人の手を取り、彼らを説得しようと驚嘆に値する率直さで論拠を提示するのであった。おそらくは説得力を高めるためなのだろう、自分が発言する度にほぼ、やけにしっかりと、まるで万力で挟むように、二人の手を痛みが出るほどに握りしめ、穴のあくほどアヴドーチヤ・ロマーノヴナを見つめるように思われた。そのことを少しもきまり悪く思わずに。痛みのせいで彼らは時折自分の手を大きな骨ばった彼の手から引っこ抜こうとするのだが、彼は問題の所在に気付かないばかりか、一層強く彼らを自分の方へ引き寄せるのであった。もし彼らが彼に今、自分たちのために階段から頭を下にして飛び降りるよう命じたなら、彼はすぐさまそれを実行したであろう。あれこれ考えたり、疑ったりせずに。親愛なるロージャに関する想念のせいですっかり不安になっていたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、この若者が常軌を逸すること甚だしく、あまりにも強く彼女の手を握りしめていると感じてはいたけれども、一方で彼は彼女にとって神意であったので、これら尋常ならざる一部始終を指摘したくはなかった。同じ不安を抱いていたにもかかわらず、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは、物怖じする性格でないのだが、驚きとほとんど恐怖すら感じて、激しい情熱で燃える兄の友人の視線に向き合っていた。この妙な男に関するナスターシアの話から生じた限りない信頼だけが、彼のもとから逃げたい、母を連れ出したいという彼女の誘惑を抑えていた。彼女は、最早彼から逃げるのはおそらく無理だろう、ということもまた理解していた。だが10分くらいすると彼女は明らかに落ち着きを取り戻した。ラズミーヒンは、例え自分がどんな気分であっても、瞬時に自分をすべてさらけ出す特性を備えていたので、誰もがあっという間に誰を相手にしているのか分かるのであった。

 

 「大家のとこへは駄目です。馬鹿げているにもほどがある!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを説得しようと彼は大声で言った。「あなたが母親だとしても、もし残ろうものなら、彼を激昂させることになります。そうなったらどうなるか分かったもんじゃありません!いいですか、僕ならこうします。これから彼のところにはしばらくナスターシアに居てもらいます。僕はあなた方二人を滞在先へ送ります。あなた方だけでは行けませんから。我々のペテルブルグはこの点については・・・まあ、どうでもいいこってす!・・・その後あなた方のところからすぐさまここに駆け戻り、15分後には、もう絶対に、あなた方に報告を持って行きます。彼はどんな状態か?寝ているかいないか?その他もろもろ。その後に、いいですか。その後にあなた方の元から一瞬で自分ちへ、――僕のところには客がいまして、みんな酔っぱらっているんですよ――ゾーシモフを連れてきます。こいつは医者で彼の治療をしてくれています。今僕のとこにいるんですが、酔っぱらってはいません。こいつは酔っぱらってません。こいつは決して酔っぱらわないんです!彼をロージャのとこへ連れて行って、それからすぐあなた方のとこへ行きます。つまり一時間であなた方は彼に関する二度の報告を受けることになります――医者からのもです。分かります?医者自身からですよ。そりゃ僕からのとじゃえらい違いだ!もし悪い知らせなら、僕自身があなた方をここに連れてくることを約束しましょう。もし良い知らせなら、横になってください。僕は一晩ここで過ごします。通路で。彼は気づかないでしょう。ゾーシモフには大家のとこで夜を明かすようにさせます。すぐ近くにいられるように。さあ彼にとって今どっちが役に立つでしょう。あなた方ですか、それとも医者ですか?そりゃ医者の方が役に立つに決まってます。そりゃもう。さあ、そんなわけですから滞在先に行きましょう!大家のとこへは駄目です。僕はいいが、あなた方は駄目です。入れてくれませんよ。というのも・・・というのも彼女は馬鹿ですから。彼女は僕とアヴドーチヤ・ロマーノヴナとの間を嫉妬しますよ。そういう意味です。あなたに対してもです・・・ですがそのアヴドーチヤ・ロマーノヴナに対しては間違いありません。

 

 あの人は全くもって意外な性格をしてますから!ですがまあ僕も馬鹿なんですけどね・・・どうでもいいことでした!行きましょう!あなた方は僕の言うことを信じますか?どうです、信じますか、信じませんか?」

 

 「行きましょう、母さん」アヴドーチヤ・ロマーノヴナが言った。「彼は言うとおりにやってくれるわ。彼はすでに兄さんに元気を取り戻させたし。もし医者がここに泊まってくれるっていうのが本当なら、それ以上いい事ある?」

 

 「いやあなたは・・・あなたは僕のことを分かっています。それはあなたが天使だからです!」歓喜してラズミーヒンが叫んだ。「行こう!ナスターシア!さっと上がって彼のとこに居てくれ、明かりもって。僕は15分後に戻る・・・」

 

 プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは完全に納得はしていなかったけれども、それ以上抵抗することはなかった。ラズミーヒンは彼ら二人を腕に抱え込んで、階段を引きずるように下り始めた。だが彼は彼女を不安にさせていた。“機敏で人がいいいのも分かるけど、約束したことを守れる状態にあるのかしら?だって彼はこんな体たらくじゃない!・・”

 

 「分かってますよ。あなたが考えているのは。僕がなんちゅう体たらくかってことでしょ!」ラズミーヒンは彼女の考えを断ち切った。それを言い当てることで。歩道を大股も大股で歩くので、二人のレディは彼について行くのがやっとだった。もっとも彼はそのことに気づいていなかったのだが。「どうでもいいことです!つまり・・・僕が馬鹿みたいに酔っぱらっていることなんて。問題はそこじゃない。僕が酔っぱらっているのは酒のせいじゃないんです。それは、僕があなた方に会った時、頭にガツンと来たんでして・・・僕の言うことなんてどうでもいいですから!どうぞお気になさらず。僕は嘘をついているんで。僕はあなた方にふさわしくありません・・・僕は全く持ってしてあなた方にふさわしくない!・・あなた方を送ったら、あっという間にちょうどこの溝のとこに来て、桶二杯分の水を頭からぶっかけますよ。そうすればもう大丈夫です・・・僕があなた方二人をどれほど愛しているか知ってくれさえすればなあ!・・笑わないでください、怒らないでください!・・誰に腹を立ててもいいですが、僕には腹を立てないでください!僕は彼の親友です。だからあなたたちの親友でもあります。僕はそうであってほしい・・・僕はこうなる気がしていたんです・・・去年。そんな一瞬があったんです・・・でもまあ予感なんて全然していなかったんですね。なぜってあなた方はまるで空から降ってきたみたいだったんですから。僕は多分一晩中でも寝ないつもりです・・・例のゾーシモフはさっき、彼が狂ってしまうんじゃないかって心配していましたよ・・・だからこそ彼をいら立たせちゃいけません・・・」