罪と罰92(3-1)

 「なんてことを!」母親が興奮して叫んだ。

 

 「本当に医者自身がそんな風に言ったんですか?」怯えたアヴドーチヤ・ロマーノヴナが尋ねた。

 

 「言いました。でもそんなんじゃないんですよ。絶対にそんなんじゃないんです。彼は薬みたいなものもくれましたよ。粉末状の。僕が見ましたから。であなた方がちょうどやってきた・・・ちぇっ!・・あなた方は明日来ればよかったのに!僕らが出てきたのは正解でした。1時間後にはゾーシモフ自身があなた方にすべてちゃんと報告しますよ。なんせあいつは酔っぱらってないんで!僕も酔いが醒めているでしょうし・・・ところで僕はなぜこれほどに酔っぱらっているのか?それは口論に巻き込まれたせいなんですよ。いまいましい奴らめ!口論はしないと誓ったのに!・・あんな馬鹿なことを言うから!

 

あやうく殴り合いになるところでしたよ!向こうには叔父を残してきました。仕切り役として・・・いったい信じられますか。連中は完全なる没個性を求めていて、そこに妙味を見出しているんです!いったいどのようにして自分自身にならないでいるか、どのようにして自分に似ることを最も少なくするか!まさにこのことが彼らにおいては最高の進歩とみなされているんです。せめて彼らが自分なりにくだらぬことを言ってくれていればいいいのですが、実際には・・・」

 

 「あのー」おずおずとプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが話の腰を折った。だがそれは火に油を注いだだけであった。

 

 「あなたはどう思いますか?」ラズミーヒンが大声で言った。一層声を張り上げつつ。「あなたは僕が彼らの駄弁を支持していると思いますか?ナンセンスですよ!僕はくだらぬおしゃべりをしているのが大好きなんです。くだらんことを言うのはあらゆる生物に対する人間の唯一の特権ですから。駄弁を弄し、真理にまでたどり着かん!僕が人間であるのはくだらんことを言うからです。たった一つの真理にもたどり着いていないのは、それまでに14回ばかしも説を唱えていないからです。ひょっとすると114回かもしれませんが。でもそれはある意味名誉なことです。我々はと言えば自分の頭でくだらないことを言うことすらできない!僕にくだらんことを言ってみろ、だが自分なりにだ。そん時はキスしますよ。自分なりにくだらないことを言う、だってそのほうが、もっぱら他人の考えに則って語る真実よりましでしょうから。第一の場合我々は人としてある。でも第二の場合は鳥にすぎない!真理はどこにも行きやしませんが、生を打ちのめしてしまうことはできる。諸々の例がありました。さあ今の我々はどうです?我々はすべからく、例外なしに、科学、進歩、思惟、発見、理想、欲求、自由主義、理性、経験、あらゆるもの、それはもうあらゆるものに関してまだギムナジウムの予備科の一年生なんです!他人の考えで済ますことが気に入ってしまって、それが記憶に刻まれてしまったんです!果たしてそうなんでしょうか?僕が言っていることは正しいんでしょうか?」ラズミーヒンが大声で言った。二人のレディの手を揺らし握りしめながら。「どうでしょう?」

 

 「ああ困ったわ、私には分からないわ。」と可哀そうなプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。

 

 「まあそうですね・・・全面的にあなたに賛成というわけでじゃありませんけど。」アヴドーチヤ・ロマーノヴナは真面目な顔をしてそう言うと、すぐ「痛っ」と叫び声を上げた。それほどまでに今回彼は彼女の手を握りしめたのだ。

 

 「そうなんですね?あなたはそうおっしゃってくれるんですね?そうであればあなたは・・・あなたは・・・」彼は歓喜して叫びだした。「あなたは善良、清廉、知性そして・・・理想の泉です!お手を貸してください、どうか・・・あなたもお手をお貸しください。僕はここで今跪いてあなた方のお手にキスをしたいのです!」

 

 そうして彼は歩道のまん中で膝立ちになった。幸いにもこの時人通りはなかった。

 

 「やめてください。お願いですから。何をしているんですか?」動揺極まったプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが大声で言った。

 

 「立ってください。立ってください!」笑いながらもやはり動揺したドゥーニャが続いた。

 

 「お手を貸していただくまでは何としても!そうなれば満足もし、立ちもし、さあ行きましょうともなります!僕は不幸な馬鹿野郎です。僕はあなた方にふさわしくありません。酔っぱらってるし、恥ずかしいとも思ってます。僕はあなた方を愛するに値しません。ですがあなた方に深い敬意を示すこと、これは各人の義務です。もしその人が紛うことなき畜生でさえなければ!それで僕は跪いたのです・・・さあここがあなた方の宿です。このことだけをもってしても、ロジオンが先ほどあなた方のピョートル・ペトローヴィチを追い出したのは間違いじゃなかった!どうしたら彼はあなた方をこんな部屋に泊めさせることができたんでしょうね?これは恥ですよ!ここにどんな人間を出入りさせているかご存知ですか?だってあなたは許嫁じゃないですか!あなたは許嫁なんですよね、そうですよね?であるなら言わせてもらいますが、こんなことをするんじゃあなたの婚約者は卑劣漢ですよ!」

 

 「あのう、ラズミーヒンさん、ブレーキが利かなくなってます・・・」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口火を切ろうとした。

 

 「そう、そうですね、あなたのおっしゃる通りだ。僕はブレーキが利かなくなっています。お恥ずかしい!」ラズミーヒンははっとして言った。「ですが・・・ですが・・・あなたは、僕がそう言うからって僕に腹を立てちゃいけません。なぜって僕は誠意をもって言ってるんであって、・・・ってわけじゃないんですから、うーむ!これじゃずるいか。一言で言えば、僕があなたに・・・というわけじゃないからです。うーむ!・・・まあ、いいでしょう。必要ありませんね。なぜかは言いません。勇気がない!・・僕らはみなさっき、彼が入ってきた時、あの男が我々の側の人間でないことを理解しました。なぜって彼が美容院でパーマをかけているからでも、自分の知性を見せつけようと躍起になっていたからでもありません。そうではなく、彼が観察者で利用する人間だからです。彼がジューで気取り屋だからです。それは明らかです。あなた方は彼が賢いと思いますか?いえ、彼は馬鹿です。馬鹿なんですよ!いったいあなた方にふさわしい相手なのかどうか?おお神よ!お分かりでしょう。ご婦人方」彼は突然立ち止まった。すでに部屋へと続く階段を上がっていた。「僕んとこにいる向こうの連中はみな酔っぱらっていますが、その代わりみな正直です。それから僕らは嘘もつきますけど、なぜってそりゃ僕も嘘をつきますから、ですが諸々の嘘は最終的には正しさにもつながっていくんです。なぜなら僕らは高潔な道を歩んでいますから。ピョートル・ペトローヴィチは・・・高潔な道を歩んでいません。僕は連中を今さっき口汚く罵りもしましたが、彼ら全員をそりゃもう尊敬しているんです。ザメートフのことは尊敬してないにしても、そりゃもう愛くるしく思っているんです。なぜって、犬ころみたいですから!あの畜生のゾーシモフでさえそうです。なぜって正直で、仕事を知っていますから・・・。でもまあ十分でしょう。すべて語られ、許された。許されてますかね?どうです?さあ、行きましょう。僕はこの廊下を知っています。来たことがあるんです。ほらここ、3番の部屋でスキャンダルがありましてね・・・それであなた方はここのどこです?何号室ですか?8番?さあそれじゃ、夜の間は鍵をかけて閉じこもっていてください。誰も中に通さないでください。15分後には知らせを持って戻り、そして30分後にはまたゾーシモフのを持って来るので、お分かりになる!さようなら、もう行きます!」

 

 「ああ、ドゥーネチカ、どうなっちゃうんだろうね?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが不安そうに、おどおどしながら娘に話しかけた。

 

 「大丈夫よ、母さん」帽子と婦人用マントを脱ぎつつ、ドゥーニャが答えた。「神様ご自身があの人を私たちに遣わしてくれたんだわ。お酒の場から直接来たみたいだけど。彼は信頼できる。間違いない。そして彼が兄さんのためにしてくれたことも全部・・・」

 

 「ああ、ドゥーネチカ、誰も分かりゃしないよ、彼が来るかどうかなんて!よくもまあ私はロージャを残してくることができたもんだ!・・全く、全く違う形で会うことを想像していたよ!あの子の厳しかったこと、まるで私たちのことを喜んでないみたいに・・・」

 

 彼女の目に涙が浮かんだ。

 

 「ちがうわ。そうじゃないのよ。母さん。よく見てなかったのよ。ずっと泣いてたから。彼は重い病気のせいでひどく滅入っているの、これがすべての原因よ。」

 

 「ああ、病気は本当にいやだね!何か起きる。何か起きるよ!それにしてもよくもあの子はお前にあんな口を聞けたもんだね、ドゥーニャ!」その考えをすべて読み取ろうとおずおずと娘の目をのぞき込みつつ母が言った。彼女は、ドゥーニャ自身がロージャを擁護していること、つまり彼を許していることから、すでに半ば元気づけられていた。「明日には考えを改めるに違いないよ。」その考えを最後まで探り出そうとして彼女は言い足した。

 

 「私は、彼は明日も同じことを言うに違いないと思う・・・その件については。」アヴドーチヤ・ロマーノヴナはぶっきらぼうに答えた。言うまでもなくその件は難問だった。なぜならまさにそこにこそ、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが今言及することを過度に恐れているポイントがあったからだ。ドゥーニャは母のところへ行ってキスをした。母は黙って彼女を強く抱きしめた。その後ラズミーヒンの帰りを不安な気持ちで待って腰を下ろすと、おずおずと娘の姿を目で追い始めた。彼女は腕を組み、やはり帰りを待って、部屋の中を行きつ戻りつし始めた。一人考えつつ。こうして考えながら部屋の中をあちこち歩き回るのはアヴドーチヤ・ロマーノヴナのいつもの習慣だった。そして母はいつもその時間に彼女の沈思を乱すことをなんとなく恐れていた。

 

 酔いの中、突然燃え上がったアヴドーチヤ・ロマーノヴナに対する情熱は、ラズミーヒンをもちろん滑稽にした。だがアヴドーチヤ・ロマーノヴナを見れば、取り分け今、腕を組んで部屋の中を物憂げに考え込みながら歩き回っている彼女を見れば、多くの人は彼を許したかもしれない。彼の常軌を逸した状態のことは言うまでもなく。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはすばらしく美しかった。背が高く、驚くほど均整が取れ、意志が強く、自信に満ちている。それは彼女のあらゆる動作の中に表れていた。しかもそれでいて彼女の仕草の柔らかさ、優雅さを損なうようなことは一切なかった。その顔は兄に似ていたが、彼女を美人と言うこともできた。髪は濃い亜麻色で、兄よりいくらか明るかった。瞳はほぼ黒、輝いていて誇り高く、それと同時に時々、時として並外れて善良になった。顔色は青ざめていたが、病的なそれではなく、その表情は生気と健康で輝いていた。口はやや小さく、下の唇はみずみずしく真っ赤で、下あごと共にわずかに前に出ていた。それはこの美しい顔における唯一の欠点であったが、それに特別な特徴と、ついでながら高慢さのようなものを与えていた。彼女の表情においては常に楽しみより真面目さがまさっており、考え深げであった。その代わりその顔には笑顔がよく映えた。楽し気で、若々しい、屈託のない笑顔が!情熱的で率直、素朴にして誠実、豪傑のように力強い、酔ったラズミーヒンが、似たような人を一度も見たことのなかった彼が、一目で冷静さを失ったのも無理はなかった。しかもまるで仕組まれたかのように、初めて彼がドゥーニャを見たのは、兄との再会という愛と喜びに沸くすばらしい瞬間だったのだ。彼は後に、彼女の下唇が兄の血も涙もない言いつけに対し憤激のあまりぶるっとなるのを見た。――抗うことはできなかった。

 

 とはいえ彼は、さっき酔った挙句階段でうっかり口をすべらせた時、本当のことを言ったのだ。ラスコーリニコフの風変わりな大家、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナがアヴドーチヤ・ロマーノヴナとの間だけでなく、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナとの間に対してすら嫉妬するかもしれない、と。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすでに43歳だったにもかかわらず、彼女の顔は昔の美貌の名残をまだ留めていた。また実年齢よりずっと若く見えた。そうしたことは、魂の明朗さ、感受性の若々しさ、誠実で純粋な熱き心を老年に至るまで保っている女性に大抵見受けられることである。ついでながら、これらすべてを保つことが、年老いてなお自身の美しさを失わないための唯一の方法である。彼女の髪はすでに白く、うすくなり始め、小じわが大分前から目の周りに放射状に出ていた。頬は落ちくぼみ、心配事と悲哀でやせこけていた。それでもなおこの顔は美しかった。それはドゥーニャの顔の生き写しであった。ただしそれは20年後のもので、下唇の格好を除いてだ。彼女のそれは前に出ていなかった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは感受性豊かであったが、嫌味になるほどではなかった。遠慮がちで妥協的であったが、一定のラインを超えることはなかった。彼女は多くのことを譲ることができたし、同意することもできた。たとえそれらが自分の考えに反していても。しかし常に、誠実さ、法規、最後の信念から成る一線が存在していて、たとえどんな状況でも彼女にその線を超えさせることはできなかった。

 

 ラズミーヒンが出てからきっかり20分後に、小さいが、あわただしいノックが2回響いた。彼は戻ったのだ。

 

 「入りませんよ。時間がない!」ドアが開かれると、彼は慌ただしく言った。「ばっちし寝ています。ぐっすり、すやすやです。10時間くらい寝てくれてるといいんですが。彼のとこにはナスターシアがついてます。僕が戻るまで離れないよう言いつけてきました。これからゾーシモフを引っ張ってきます。彼があなた方にちゃんとした報告をしますよ。そしたらあなた方も横になれます。疲れが限界にきているのは分かってますから。」

 

 そして彼は、廊下伝いに彼らの元を立った。

 

 「機敏で・・・献身的な若者だこと!」喜びにあふれるプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが声を上げた。

 

 「すばらしい人みたいね!」いくばくかの熱気を帯びてアヴドーチヤ・ロマーノヴナが答えた。再び部屋の中を行きつ戻りつし始めつつ。

 

 

罪と罰91(3-1)

 ラスコーリニコフは起き上がるとソファの上に腰かけた。

 

 彼はラズミーヒンに対し軽く手を振った。母と妹に向けられた彼のとりとめのない、熱い慰めの言葉の奔流を制止するためである。そして彼ら二人の手を取り、二分ばかり黙って、ある時は一方の、またある時は他方の顔をじっと見た。母は彼の視線に驚愕した。その視線には苦しみに至るほどの強い感情がにじみ出ていた。だが同時に確固たる何か、まるで理性を欠いてさえいるような何かが存在していた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣き出した。

 

 アヴドーチヤ・ロマーノヴナは青ざめていた。彼女の手は兄の手の中で震えていた。

 

 「帰ってください・・・彼と一緒に。」ラズミーヒンを示しながら、彼は途切れ途切れに言った。「また明日。明日にはすべてが・・・大分前に着いたんですか?」

 

 「夜だよ、ロージャ。」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが答えた。「汽車がとんでもなく遅れてね。でもロージャ、私は今やもう何としてもお前から離れませんからね!ここで並んで寝ますよ・・・」

 

 「僕を苦しめないでください!」いらいらして手を振ると彼は言った。

 

 「僕が彼のとこに残ります!」ラズミーヒンが大声で言った。「1分だって彼の元を離れやしません。向こうにいる客のことなんて何もかも知ったことか。怒るにまかせておけ!向こうじゃ僕の叔父が仕切ってくれていますから。」

 

 「なんとお礼を申し上げればいいのやら!」ラズミーヒンの手を再び握りプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いかけると、ラスコーリニコフが再度それを遮った。

 

 「無理だ。無理です。」いらいらして彼は繰り返した。「苦しめないでください!十分です。出てってください・・・耐えられません!・・」

 

 「行きましょう。母さん。1分だけでも部屋から出ましょう。」不安を感じたドゥーニャがささやいた。「私たちが彼を苦しめていることは確かだわ。」

 

 「息子をちょっとでも見ちゃいけないなんてことある?三年ぶりだというのに!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣き出した。

 

 「待ってください!」彼は彼らを再び呼び止めた。「あなたたちは話の腰を折ってばかりだ。こっちは頭が混乱する・・・ルージンには会ったんですか?」

 

 「いいえ、ロージャ、でも彼はもう私たちが着いたことを知ってます。聞きましたよ、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィチが親切にも今日お前を訪ねて来たって。」いくらか気後れしつつプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが付け加えた。

 

 「ええ・・・そう親切にもね・・・ドゥーニャ、ルージンにさっき言ってやったよ。階段から落とすぞって。そんで奴を追っ払ってやった・・・」

 

 「ロージャ、お前なんてことを!お前はきっと・・・お前は言いたくないんだろ」驚いてプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いかけたが、ドゥーニャを見て止めた。

 

 アヴドーチヤ・ロマーノヴナはじっと兄を見つめ、その先を待った。二人はすでにナスターシアから一悶着あったことついて聞かされていた。彼女が理解し、伝えうる限りにおいて。そして半信半疑で待つ間、悩み抜いてへとへとになっていたのだった。

 

 「ドゥーニャ」ラスコーリニコフはどうにか続けた。「僕はこの結婚に反対だ。だからお前は、明日にも、話す機会があり次第、ルージンに断りを入れてさっさと帰ってもらうようにしなければならない。」

 

 「何てことを!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。

 

 「兄さん、あきれちゃうわね、何を言うの!」かっとなってアヴドーチヤ・ロマーノヴナ言いかけたが、すぐさま自制した。「きっと今は満足な状態じゃないのよ。疲れているんだわ。」と彼女は穏やかに言った。

 

 「うわ言だとでも?そうじゃない・・・お前は僕のためにルージンと結婚しようとしている。だが僕は犠牲なんて受け取らないよ。だから明日までに手紙を書くんだ・・・断りの・・・朝僕に読ませてくれ。それでお仕舞さ!」

 

 「そんなことできません!」腹を立てた娘が叫んだ。「どんな権利があって・・・」

 

 「ドゥーネチカ、お前もかっとなりやすいよ。止めなさい。明日・・・・分からないはずないわね・・・」怖くなった母が、ドゥーニャの元へさっと寄りながら言った。 「ああ、出て行った方がいいわね!」

 

 「うわ言さ!」酔ったラズミーヒンが大声でしゃべり出した。「そうじゃなきゃできるかって!明日にはこんなでたらめは全て抜け落ちるんでしょうが・・・ですが今日彼は実際彼を追い出しましたよ。それは確かにその通りです。まあその、あの人は怒ってましたけど・・・ここで大いに語って、知識をひけらかして、そんで消えちゃいました。へしゃんとなって・・・」

 

 「それじゃ本当なのね?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが叫んだ。

 

 「また明日、兄さん」憐れむようにドゥーニャが言った。「行きましょう、母さん・・・じゃあね、ロージャ!」

 

 「いいか、お前」彼は最後の力を振り絞って、後ろから繰り返した。「僕は熱に浮かされて言ってるんじゃない。この結婚は卑劣だ。仮に僕が卑劣漢だとしても、お前は駄目だ・・・一人誰かが・・・僕は卑劣漢だが、そういうことをする妹を妹だと見なすつもりはない。僕かルージンかだ!行ってください・・・」

 

 「頭おかしいぞ!何様なんだ!」ラズミーヒンが吠えだした。だがラスコーリニコフはもう答えようとしなかった。ひょっとすると答えることすらできなかったのかもしれない。彼はソファの上に横になると、疲労困憊の体で壁の方に顔を向けてしまった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは興味深そうににラズミーヒンの方に視線を向けていたのだが、その黒い瞳が閃いた。ラズミーヒンはその視線を受けびくりとさえした。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは打ちのめされたようにして立っていた。

 

 「どうしたってここを離れるわけにはいきません!」と彼女がラズミーヒンにささやいた。ほとんど絶望している体であった。「私はここに残ります。どこかしらで・・・ドゥーニャを連れて行ってください。」

 

 「すべて台無しにしてしまいますよ!」かっとなったラズミーヒンがやはりささやきで返した。「せめて階段に出ましょう。ナスターシア、明かり頼む!誓って言いますがね」彼は小声で続けた。すでに階段上だった。「さっき我々を、僕と医者を殴りかねなかったんですよ!分かりますか?医者を、ですよ!だから刺激しないよう彼は譲って引き上げたんです。僕は見張るために下に残りました。でも彼はすぐ服を着てこっそり出てったんです。今回もこっそり出ていきますよ。刺激するようだと。夜中に。そして自分を害するような真似だってしかねません・・・」

 

 「おー、なんてことを!」

 

 「それにアヴドーチヤ・ロマーノヴナをあなたなしで一人で宿に残すことはできません!あなた方がどこに泊まっているのか考えてください!あの卑劣漢、ピョートル・ペトローヴィチがあなた達にもっとましな部屋を取ってあげれなかったなんてことありますかね・・・でも、ほら、私は少々酔っぱらっておりまして、だからその・・・口が悪くなっております。気にしないでください・・・。」

 

 「ですけど私はここの大家さんのとこへ行きます。」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは譲らなかった。「私とドゥーニャに一晩過ごせる場所をなんとしても貸してもらえるようお願いします。あんな風にして彼を残しておけません。できませんから!」

 

 こんなことを言いながら彼らは階段、踊り場、まさにその大家のドアの前に立っていた。ナスターシアは彼らを下の踏み段から照らしていた。ラズミーヒンは異常なくらい興奮していた。すでに30分前、ラスコーリニコフを家に送っている時、彼は度を越して口が軽くなっており、自身それを認めてもいたが、元気であることこの上なく、ほとんどすがすがしくさえあった。その晩飲み干された馬鹿げた酒量にもかかわらず。今や彼の状態は有頂天のようなものにさえ近かった。また同時に飲み干した酒が再び一気に二倍の力でもって彼の頭に襲い掛かったようでもあった。彼は二人のレディと一緒にそこに立っていたのだが、二人の手を取り、彼らを説得しようと驚嘆に値する率直さで論拠を提示するのであった。おそらくは説得力を高めるためなのだろう、自分が発言する度にほぼ、やけにしっかりと、まるで万力で挟むように、二人の手を痛みが出るほどに握りしめ、穴のあくほどアヴドーチヤ・ロマーノヴナを見つめるように思われた。そのことを少しもきまり悪く思わずに。痛みのせいで彼らは時折自分の手を大きな骨ばった彼の手から引っこ抜こうとするのだが、彼は問題の所在に気付かないばかりか、一層強く彼らを自分の方へ引き寄せるのであった。もし彼らが彼に今、自分たちのために階段から頭を下にして飛び降りるよう命じたなら、彼はすぐさまそれを実行したであろう。あれこれ考えたり、疑ったりせずに。親愛なるロージャに関する想念のせいですっかり不安になっていたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、この若者が常軌を逸すること甚だしく、あまりにも強く彼女の手を握りしめていると感じてはいたけれども、一方で彼は彼女にとって神意であったので、これら尋常ならざる一部始終を指摘したくはなかった。同じ不安を抱いていたにもかかわらず、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは、物怖じする性格でないのだが、驚きとほとんど恐怖すら感じて、激しい情熱で燃える兄の友人の視線に向き合っていた。この妙な男に関するナスターシアの話から生じた限りない信頼だけが、彼のもとから逃げたい、母を連れ出したいという彼女の誘惑を抑えていた。彼女は、最早彼から逃げるのはおそらく無理だろう、ということもまた理解していた。だが10分くらいすると彼女は明らかに落ち着きを取り戻した。ラズミーヒンは、例え自分がどんな気分であっても、瞬時に自分をすべてさらけ出す特性を備えていたので、誰もがあっという間に誰を相手にしているのか分かるのであった。

 

 「大家のとこへは駄目です。馬鹿げているにもほどがある!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを説得しようと彼は大声で言った。「あなたが母親だとしても、もし残ろうものなら、彼を激昂させることになります。そうなったらどうなるか分かったもんじゃありません!いいですか、僕ならこうします。これから彼のところにはしばらくナスターシアに居てもらいます。僕はあなた方二人を滞在先へ送ります。あなた方だけでは行けませんから。我々のペテルブルグはこの点については・・・まあ、どうでもいいこってす!・・・その後あなた方のところからすぐさまここに駆け戻り、15分後には、もう絶対に、あなた方に報告を持って行きます。彼はどんな状態か?寝ているかいないか?その他もろもろ。その後に、いいですか。その後にあなた方の元から一瞬で自分ちへ、――僕のところには客がいまして、みんな酔っぱらっているんですよ――ゾーシモフを連れてきます。こいつは医者で彼の治療をしてくれています。今僕のとこにいるんですが、酔っぱらってはいません。こいつは酔っぱらってません。こいつは決して酔っぱらわないんです!彼をロージャのとこへ連れて行って、それからすぐあなた方のとこへ行きます。つまり一時間であなた方は彼に関する二度の報告を受けることになります――医者からのもです。分かります?医者自身からですよ。そりゃ僕からのとじゃえらい違いだ!もし悪い知らせなら、僕自身があなた方をここに連れてくることを約束しましょう。もし良い知らせなら、横になってください。僕は一晩ここで過ごします。通路で。彼は気づかないでしょう。ゾーシモフには大家のとこで夜を明かすようにさせます。すぐ近くにいられるように。さあ彼にとって今どっちが役に立つでしょう。あなた方ですか、それとも医者ですか?そりゃ医者の方が役に立つに決まってます。そりゃもう。さあ、そんなわけですから滞在先に行きましょう!大家のとこへは駄目です。僕はいいが、あなた方は駄目です。入れてくれませんよ。というのも・・・というのも彼女は馬鹿ですから。彼女は僕とアヴドーチヤ・ロマーノヴナとの間を嫉妬しますよ。そういう意味です。あなたに対してもです・・・ですがそのアヴドーチヤ・ロマーノヴナに対しては間違いありません。

 

 あの人は全くもって意外な性格をしてますから!ですがまあ僕も馬鹿なんですけどね・・・どうでもいいことでした!行きましょう!あなた方は僕の言うことを信じますか?どうです、信じますか、信じませんか?」

 

 「行きましょう、母さん」アヴドーチヤ・ロマーノヴナが言った。「彼は言うとおりにやってくれるわ。彼はすでに兄さんに元気を取り戻させたし。もし医者がここに泊まってくれるっていうのが本当なら、それ以上いい事ある?」

 

 「いやあなたは・・・あなたは僕のことを分かっています。それはあなたが天使だからです!」歓喜してラズミーヒンが叫んだ。「行こう!ナスターシア!さっと上がって彼のとこに居てくれ、明かりもって。僕は15分後に戻る・・・」

 

 プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは完全に納得はしていなかったけれども、それ以上抵抗することはなかった。ラズミーヒンは彼ら二人を腕に抱え込んで、階段を引きずるように下り始めた。だが彼は彼女を不安にさせていた。“機敏で人がいいいのも分かるけど、約束したことを守れる状態にあるのかしら?だって彼はこんな体たらくじゃない!・・”

 

 「分かってますよ。あなたが考えているのは。僕がなんちゅう体たらくかってことでしょ!」ラズミーヒンは彼女の考えを断ち切った。それを言い当てることで。歩道を大股も大股で歩くので、二人のレディは彼について行くのがやっとだった。もっとも彼はそのことに気づいていなかったのだが。「どうでもいいことです!つまり・・・僕が馬鹿みたいに酔っぱらっていることなんて。問題はそこじゃない。僕が酔っぱらっているのは酒のせいじゃないんです。それは、僕があなた方に会った時、頭にガツンと来たんでして・・・僕の言うことなんてどうでもいいですから!どうぞお気になさらず。僕は嘘をついているんで。僕はあなた方にふさわしくありません・・・僕は全く持ってしてあなた方にふさわしくない!・・あなた方を送ったら、あっという間にちょうどこの溝のとこに来て、桶二杯分の水を頭からぶっかけますよ。そうすればもう大丈夫です・・・僕があなた方二人をどれほど愛しているか知ってくれさえすればなあ!・・笑わないでください、怒らないでください!・・誰に腹を立ててもいいですが、僕には腹を立てないでください!僕は彼の親友です。だからあなたたちの親友でもあります。僕はそうであってほしい・・・僕はこうなる気がしていたんです・・・去年。そんな一瞬があったんです・・・でもまあ予感なんて全然していなかったんですね。なぜってあなた方はまるで空から降ってきたみたいだったんですから。僕は多分一晩中でも寝ないつもりです・・・例のゾーシモフはさっき、彼が狂ってしまうんじゃないかって心配していましたよ・・・だからこそ彼をいら立たせちゃいけません・・・」

 

罪と罰90(2-7)

 ラズミーヒンを見つけ出すのは訳なかった。ポチンコーフの建物の新たな借家人のことはすでに知られており、屋敷番はすぐ彼に行き方を教えてくれた。すでに階段の途中から、大人数の集まりのざわめきと活気あふれる声を聞き分けることができた。階段に面したドアは外に開け放たれていた。喧しい声と議論でがやがやしていた。ラズミーヒンの部屋はかなり広く、15人ほどの集まりになっていた。ラスコーリニコフは玄関で待った。そこの仕切の向こうでは、二人の家主の女中が、二つの大きなサモワールと家主の台所から運ばれてきた瓶に皿、それにピローグと前菜を載せた諸々の大皿の配膳やらに奔走していた。ラスコーリニコフはラズミーヒンを呼びに行かせた。彼は歓喜して走り寄ってきた。一目で彼が尋常じゃないほど沢山飲んでいることが分かった。ラズミーヒンはどんなに飲んでもすっかり酔っぱらうことはまずできなかったが、今回はどうもそうらしかった。

 

 「おい」ラスコーリニコフは気ぜわしく言った。「賭けはお前の勝ちだ、それから自分の身に何が起こるかなんて実際誰も分かりゃしない、てことを言うためだけに来た。中に入ることはできない。えらく弱ってて今にも倒れそうなんだ。だからよろしくやってくれ、それじゃ!でも明日には僕のとこに来てくれ・・・」

 

 「おいおい、家まで送って行くって!だってお前自分で弱ってるって言ってるじゃないか、だったら・・・」

 

 「だが客は?今しがたこっちをのぞきこんだ天然パーマの彼は誰だい?」

 

 「彼?知るか!おじさんの知り合いに決まってる。でもまあ自分で勝手に来たのかもしれんが・・・おじさんに残ってもらうよ。これがもう本当にいい人なんだ。お前が今知り合いになれないのが残念だ。だが連中のことなんか何もかも知ったことか!今やあいつらにとって俺なんてどうでもいいんだから。それに俺は酔いを冷まさないと。だからロジオン、お前はいいタイミングで来てくれたよ。あともう2分いたら、俺は向こうで殴り合いのけんかをおっ始めるところだったんだから。本当に!ああいう馬鹿なことをほざいているからさ・・・。人間てやつが仕舞にはどれほど手に負えないほらふきになるかなんて、お前には想像もつくまい!でも、想像もつかないなんてことあるか?俺たち自身は嘘をつかないとでも?でもまあ言わせておくさ。そうすりゃ後でほらも出なくなるだろう・・・。ちょっと寄ってけよ。ゾーシモフを連れてくる。」

 

 ゾーシモフはむさぼりつかんばかりにラスコーリニコフに飛びついた。彼にある特別な好奇心があったのは明らかだった。やがてその表情は晴れ渡った。

 

 「すぐ眠ること。」できる限りにおいて患者を診察すると、彼は診断を下した。「だが夜に備えて一つ服用した方がいいだろうな。飲むかい?さっき準備しておいたんだ・・・散薬を一つ。」

 

 「二つでも。」ラスコーリニコフが答えた。

 

 散薬はその場で飲まれた。

 

 「お前自身が彼を送ってってやるのは大変結構なことだ。」ゾーシモフがラズミーヒンに意見した。「明日どうなるか見てみよう。にしても今日は悪いどころじゃない。さっきとはえらい違いだ。生きてるうちは常に学べ、か・・・」

 

 「なあ、ゾーシモフがついさっき俺に何てささやいたと思う。俺たちが出てく時さ。」通りに出るなりラズミーヒンがぶっちゃけた。「ロジオン、俺はお前に全部そのまま言っちゃうよ。だってあいつらはあほうなんだから。ゾーシモフは俺に、道すがらお前とくっちゃべって、お前にしゃべらせて、後でその内容を自分に話すよう指示したんだ。なぜって彼には考えがあってだな・・・お前が・・・頭が狂ってしまったかあるいはそれに近い状態なんじゃないかという。考えてもみろっつうの!第一に、お前は奴より三倍賢い。第二に、お前の頭がおかしくなってないなら、奴にそうした馬鹿げた考えがあることなんてお前にとっちゃどうでもいいはずだ。それから第三に、この馬鹿げた考えの主は、自分の専門は外科医なんだけれども、今は心の病に夢中になっていてだな、でその、お前についての考えを彼に決定づけたのは、お前が今日ザメートフと交わした会話なのさ。」

 

 「ザメートフがお前さんに何もかも話したのかい?」

 

 「全部だ。しかもうまいこと話したよ。今や俺は何から何まで理解しているんだ。ザメートフのように・・・。それで、そう、一言で言えばだな、ロージャ、実はその・・・俺は今ちーっと酔っぱらってるな・・・。だがそんなことは何でもない・・・肝心なことはだな、その考えは・・・分かるか?彼らのもとに本当にたまたま現れたってことさ・・・分かるだろ?つまり彼らの誰もがそれを声に出して言う勇気はなかった。なぜってそのたわごとがばかばかしいことこの上ないから。特に例の染色工が捕まって、それらがみんな意味を失って、雲散霧消した今となっては。なんだって彼らはあんなあほうなんだ?俺はあの時ザメートフを軽く殴っちまったよ。――これはここだけの話しだぞ、ロジオン。頼むからお前が知ってるのをほのめかすのもやめてくれよ。奴はデリケートな男なんだと分かったよ。ラヴィーザのとこであったんだよ。だが今日、今日すべてが明らかになった。重要人物は例のイリヤ・ペトローヴィチさ!彼があの時、警察署でお前が失神したことにつけこんだんだ。だが後になって自分でも恥ずかしくなったんだな。俺は知ってるぞ・・・」

 

 ラスコーリニコフは貪るように聞き耳を立てていた。ラズミーヒンは酔っぱらって口に締まりがなくなっていた。

 

 「僕があの時失神したのは、蒸し暑くてペンキの匂いがしてたからだよ。」とラスコーリニコフは言った。

 

 「他にもあるさ!ペンキだけじゃないぞ。丸一か月病気がゆるゆる進行していたんだ。ゾーシモフが証人だ!それにしてもあの青二才が今どれほどぐったりきてるか、まあお前には想像もつくまい!“俺は彼の小指にすら値しない!”なんて言ってるからな。お前さんのことだ、つまり。彼には、ときどきだが、ロジオン、殊勝な心がけが出てくるんだよ。しかしレッスン、“クリスタル宮殿”で彼につけてやった今日のレッスンは、いやもう完璧だな!だってお前は最初奴を脅かしておいて、痙攣させるところまで追い込んだんだから!お前はまた奴に得たいの知れないたわ言をほとんど丸々信じさせておいて、その後突然、彼にベロを突き出したんだからな。“そら、ざまあ見ろ!”と言わんばかりに。

 

 完璧だよ!今なんて圧倒されて、ぼろぼろになってるぜ!お前は大したもんさ。確かにそうしてしかるべきさ。ああ全くなんで俺はそこにいなかったんだ!あいつは今お前に会いたくてしょうがいないんだから。ポルフィーリーもお前と知り合いになりたがってるし・・・」

 

 「あー・・・あの人も・・・ところでなぜ僕は狂人にされちゃんたんだい?」

 

 「つまりその狂人てわけじゃないんだ。ロジオン、俺はどうもお前にしゃべり過ぎちまったみたいだな・・・あのな、さっき彼に強い印象を与えたのは、お前がたったひとつの点だけに興味を持っている、ということなんだ。今となっちゃなぜ興味を引くのかは明らかなんだけれども。全ての状況を知ってるからね・・・このことがどれほどお前をあの時いらいらさせたか、病気と密接に結びついていたか・・・俺は、ロジオン、ちょっと酔っぱらってる。ちょっとだけだ。何だか分からんが、彼には何かしら自分なりの考えがあるのさ・・・お前に言っておくけどな、心の病に夢中になってんだよ。ただお前は気にするなよ・・・」

 

 30秒ほど二人は口をつぐんだ。

 

 「なあ、ラズミーヒン」ラスコーリニコフが沈黙を破った。「僕はお前に直接言いたいことがあるんだ。僕はついさっき人が亡くなるのに立ち会った。一人の役人が亡くなったのさ・・・僕はそこで自分の金を全部渡してきた・・・それからこんなことも。今さっき僕は一個の生き物にキスをされたんだ。そいつは、もし僕が誰か殺すなら、やはりそいつも・・・一言で言うならば。僕はそこでさらに別の生き物に会った・・・炎の羽飾りを付けた・・・だが僕は訳の分からぬことを言いまくっているな。とても弱っているんだ。支えてくれよ・・・だってすぐ階段だろ・・・」

 

 「どうしたんだ?どうしたんだよ?」不安になったラズミーヒンが尋ねた。

 

 「頭がちょっとくらくらするんだ。けど問題はそこじゃなくて、俺の気持ちが沈みに沈んでいることにあるんだ!まるで女みたいに・・・実際のところ!見ろよ、あれは何だ?見てみろよ!見てみって!」

 

 「一体どうした?」

 

 「本当に分からないのか?僕の部屋に明かりが点いてる、見えるだろ?隙間に・・・」

 

 彼らはもう最後の階段の前、家主のドアの脇に立っていた。実際、ラスコーリニコフの小室に明かりが点いているのが下から確認できた。

 

 「妙だな!ナスチャかな、もしかすると。」とラズミーヒンが言った。

 

 「この時間に彼女が僕のとこに来たことは一度もない。それに彼女は大分前から寝てるし。だが・・・僕にはどうでもいいことだ。それじゃ!」

 

 「どういうことだ?俺はお前を送ってきてるんだ、一緒に中に入ろうぜ!」

 

 「一緒に中に入るってのは分かるんだが、僕としてはここでお前と握手して、ここでさよならしたいとこだな。さっ、手を出してくれ、それじゃ!」

 

 「どうしたんだ、ロージャ?」

 

 「何でもないさ。さあ行こう。お前が証人だな・・・」

 

 彼らは階段を上り出した。もしかするとゾーシモフが正しいのかもしれない、という考えがラズミーヒンの頭をよぎった。“くそっ!俺のおしゃべりのせいで調子を崩しちまったぞ!”彼は独りつぶやいた。ドアの前まで来ると、突然彼らは部屋の中で交わされている声を耳にした。

 

 「一体こりゃどういうこった?」ラズミーヒンが大声で言った。

 

 ラスコーリニコフが先にドアに手をかけ外に開いた。開くと敷居の上で釘付けされたように立ち尽くした。

 

 彼の母と妹がソファの上に腰を下し、すでに一時間半も待っていたのだ。なぜ彼は彼らの到来を全く予期していなかったのか、彼らのことを全く気にしていなかったのか、今朝彼らが出発して、向かっており、間もなく到着するという再度に及ぶ通知があったにもかかわらず。この一時間半をフルに使って、彼らは競うようにしてナスチャを質問攻めにした。彼女は今も彼らの前に立っており、すでに彼らに全内幕を語り果せていた。彼が“今日抜け出し”、病んでおり、話から明らかなように、間違いなくうわ言を言っているということを聞いたとき、彼らは驚愕して茫然自失した。“なんてこと、彼に何が!”二人は泣いた。二人はこの1時間半の待ち時間ではりつけの苦しみを味わっていた。

 

 喜びに満ちた、熱狂的な叫びがラスコーリニコフの登場を迎えた。二人は彼に飛びついた。だが彼は死人のように突っ立っていた。耐え難い不意に現れた意識が雷のように彼を貫いた。彼らを抱きしめる腕すら上がらなかった。できなかったのだ。母と妹は彼を抱き、キスし、笑い、泣いた・・・。彼は一歩踏み出すとよろけ、床の上に倒れ、失神した。

 

 狼狽、恐怖の叫び声、嘆き・・・敷居の上に立っていたラズミーヒンが部屋の中に飛び込み、病人をその力強い腕で抱えた。病人は瞬く間にソファの上に寝かされていた。

 

 「大丈夫ですよ、大丈夫です!」彼はラスコーリニコフの母と妹に大声で言った。「これは失神で、大したことないですよ!ついさっき医者が言ってました。彼はずっと良くなった、彼はすっかり健康だと!水を!ほらもう彼は分かりかけてる、ほら意識を取り戻りました!・・」

 

 そして彼はドゥーネチカの手をぐいと掴むと、それは脱臼させかねんばかりの勢いだったのだが、“ほらもう意識を取り戻した”ということを見届けさせるために彼女を屈ませた。母親も妹も感謝感激しつつラズミーヒンのことを神のように見なしていた。彼らはすでにナスターシャから、病気の間、彼らのロージャにとってこの“気が利く若者”がどういう存在であったかを聞いていたのだった。ちなみに彼のことを、まさにその晩、ドゥーニャとの親密な会話の際、そう呼んだのはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコヴァ自身である。

 

罪と罰89(2-7)

 「あー、神父様!言葉はしょせん言葉なんじゃないですか!許すって!やっぱり彼は今日酔っぱらって帰って来たでしょうよ。轢かれてなかったら。着てるシャツが唯一ので、そこら中擦れ切れてて、ぼろぼろもいいとこ。あんな風になすべきこともせず横になっていたでしょうね。私ときたら夜明けまで水の中でばちゃばちゃやっていたでしょうよ。彼の着古しと子どものを洗うんです。その後窓の外に干して、夜が明ければすぐ縫物にもとりかかったでしょうに。そんな風にして私の夜は過ぎるんです!・・それなのになぜ今許しを口にしなければならないんですか!しかも許して許してきたんですから!」深い、痛ましい咳が彼女の発言を遮った。彼女は咳払いして痰をハンカチに吐き出すと司祭に見せるためそれを突き出した。痛む胸を片方の腕で軽く抑えつつ。ハンカチは血だらけであった・・・

 

 司祭はうなだれて言葉がなかった。

 

 マルメラードフは最期の時を迎えていた。彼は、自分の上に再び屈みこんだカテリーナ・イヴァーノヴナの顔から目を離さずにいた。彼はまだ彼女に何か言いたかった。彼はどうにか舌を動かして不明瞭な言葉を口に出しかけた。だが自分に許しを求めていることを理解したカテリーナ・イヴァーノヴナは、すぐさま命令口調で強く言った。

 

 「黙りなさい!必要ありません!・・言いたいことは分かっています!・・」すると病人は黙った。だが、ちょうどその時、迷走する彼の視線がドアのところで止まった。彼はソーニャを見つけた・・・。

 

 その時まで彼は彼女の存在に気付いていなかった。彼女が隅で目立たないようにしていたからだ。

 

 「あれは誰?あれは誰?」息切れするかすれ声で彼は突然言った。不安に駆られ、驚愕した目で娘が立っているドアの方を示し、起き上がろうと努めつつ。

 

 「横になってなさい!横になってなさいって!」とカテリーナ・イヴァーノヴナが怒鳴りかけた。

 

 だが彼は尋常ならざる精神力で腕にもたれかかることに成功した。彼はそこばくの間おずおずと娘の方をじっと見ていた。まるで彼女だと分からないかのように。実際彼はまだ一度も彼女がそんな格好でいるのを見たことがなかった。突然彼は彼女だと認識した。卑屈な様子で、打ちひしがれ、めかしこんで恥じ入り、死にゆく父に別れを告げる自分の順番が来るのを、感情を押し殺して待ち設けているのが彼女だと。永遠の苦しみが彼の表情に刻まれた。

 

 「ソーニャ!娘よ!許しておくれ!」そう彼は叫んで彼女に手を差し伸べかけたが、支えを失ったことで、ソファーからどすーんと転落した。顔面から床へもろにだった。彼を起こそうとさっと人々が集まり寝かせたが、彼はすでに息をしていなかった。ソーニャは弱々しく叫ぶと、駆け寄って彼を抱きしめ、その姿勢のまま動かなくなってしまった。彼は彼女の腕の中で亡くなった。 

 

 「自分の願いを遂げ満足でしょう!」カテリーナ・イヴァーノヴナは夫の遺体を見て大声で言った。「さあそれで今、何をしたらいいのよ!私はどうやって彼の葬式をしたらいいの!だいたいどうやって彼らを、彼らを明日からどうやって養っていけばいいの!」

 

 ラスコーリニコフがカテリーナ・イヴァーノヴナの元へ歩み寄った。

 

 「カテリーナ・イヴァーノヴナ」彼は彼女に語り始めた。「先週あなたの亡くなられた旦那さんが僕にその全人生とすべての事情を話してくれました・・・信じていただきたいのですが、彼はあなたのことを熱狂的な尊敬を込めて語っていましたよ。その晩から、彼があなた方みんなに忠実で、特別あなたを、カテリーナ・イヴァーノヴナ、尊敬し愛しているのを僕が知った時から、自分の不幸な弱さにもかかわらずです、その晩から、僕たちは親友になりました・・・。どうか今僕に・・・亡き友人に対する借りを返させていただきたいのです。今ここに・・・20ルーブルあると思います。それでもしこれがあなた方の助けになるのなら、その時は・・・僕は・・・つまりその、また来ます。必ず立ち寄りますから・・・ひょっとしたらもう明日にも来るかもしれません・・・さようなら!」

 

 すると彼は、なるべく早く階段に出ようと群衆の間を押しのけ押しのけ、さっと部屋から出て行ってしまった。だが群衆のただ中で突然ニコヂーム・フォミーチとばったり出会った。不幸を知り自ら現場を仕切ろうと来ていたのだ。警察署での一幕以来彼らは会っていなかった。だがニコヂーム・フォミーチは瞬時に彼と認識した。

 

 「おや、なぜあなたが?」彼はラスコーリニコフに尋ねた。

 

 「亡くなりました。」ラスコーリニコフは答えた。「医者が来て、司祭が来て、すべて滞りなく行われました。あの大変哀れな女性を困らせないでやってください。それでなくても彼女は肺病を患っていますから。彼女を元気づけてやってください。もしできるのであれば・・・だってあなたはいい人でしょう。僕は知っていますよ・・・」薄笑いを浮かべて彼は言い足した。相手の目を真っすぐ見つつ。

 

 「それはそうとあなた血が付いてしまっていますね。」ランプの明かりによってラスコーリニコフのチョッキに付いたばかりの斑点がいくつかあるのを発見して、ニコヂーム・フォミーチが指摘した。

 

 「ええ。付いてしまいました・・・僕なんか体中血まみれですよ。」どこかしらいつにない様子でラスコーリニコフが言った。その後笑顔になると、頭を下げ、階段を下り始めた。

 

 彼は静かに下りて行った。急くことなく、全身熱病に浮かされたような興奮につつまれ、そして、ある新しい無辺の、満ち足りた力強い生(それは突如訪れた)の感覚に自分が満たされていることを認識しないままに。その感覚は、死刑が決まっていた囚人に突然予期せぬ赦免が通告される時の感覚に近いかもしれなかった。階段の半ばで帰途についた司祭が彼に追いついた。ラスコーリニコフは彼と無言のお辞儀を交わすと、黙って彼に道を譲った。もう最後の階段を下っていた時、彼は突然背後に慌ただしい足音を聞いた。誰かが彼を追ってきたのだ。それはポーレニカであった。彼女は彼を追って走りつつ、彼に呼びかけた。「あのう!あのう!」

 

 彼は彼女の方に向き直った。彼女は最後の階段を駆け下り、彼の真ん前、彼より一段上のところで立ち止まった。ぼんやりとした明かりが中庭から差し込んでいた。ラスコーリニコフはやせているが、可愛らしい女の子の顔を見分けた。彼に微笑みかけ、子供っぽくうれしそうに彼の方を見ていた。彼女は頼まれて走ってきたのだが、どうやら彼女自身それが大層気に入っているようであった。

 

 「あのう、お名前は何ていうんですか?・・それから、どこに住んでいますか?」息切れがする声で、彼女は急いで尋ねた。

 

 彼は両手を彼女の肩の上に置き、どこか満足気に彼女を見ていた。彼女を見ているのが彼にはそれほどに心地よかった。彼自身なぜそうなのか知らなかった。

 

 「ところで誰があなたを寄こしたのかな?」

 

 「私を寄こしたのはお姉ちゃんのソーニャです。」もっとうれしそうな笑顔になりながら女の子は答えた。

 

 「僕もそうだと知ってたよ。あなたを寄こしたのはおねえちゃんのソーニャだって。」

 

 「お母さんも私を寄こしました。お姉ちゃんのソーニャが送り出そうとした時、お母さんも寄ってきて言ったんです。“なるべく早く走って、ポーレニカ!”って。」

 

 「お姉ちゃんのソーニャのことは愛しているんですか?」

 

 「誰よりも愛しています!」ある特別な確信をもってポーレニカが言った。すると彼女の笑顔が突然ぐっと真面目なものになった。

 

 「ところで僕のことは愛するようになりますか?」

 

 答えの代わりに、彼は自分の方へ寄って来る女の子の顔とふっくらとした唇を認めた。それは無邪気に伸びてきて彼にキスをした。突然マッチのようにか細い彼女の両腕が彼を強く強く抱きしめた。頭は彼の肩に預けていた。すると女の子は声を出さずに泣き始めた。顔を彼に一層強く押しつけながら。

 

 「お父さんがかわいそう!」間もなく彼女は、泣きぬれた顔を上げる際、手で涙を拭いつつ言った。「近頃はこんな不幸ばかり。」彼女は不意に、やけにしっかりとした態度で言葉を継いだ。それは子どもが、突然大人のように話そうとする時、背伸びして取る例の態度であった。

 

 「ところでお父さんはあなたたちのことは愛していましたか?」

 

 「彼は私たちの中で誰よりもリーダチカのことを愛していました。」彼女は笑顔を見せることもなく、非常に真面目な様子で話を続けた。もはや完全に大人同士の会話のようであった。「愛していたのは彼女が幼いからです。それに病気を持っているので。だから彼女にはいつもお土産を持ってきていました。ところで彼は私たちに読むことを、私には文法と神学を教えてくれました。」彼女は胸を張って言い足した。「お母さんは何も言わなかったけど、彼女がこのことをとても喜んでいるのをみんな知っていました。お父さんも知っていました。お母さんは私にフランス語を教えたがっています。私はもう教育を受けてもいい年頃なので。」

 

 「ところであなたたちはお祈りはできるんですか?」

 

 「おー、それはもちろんできます!もう大分前から。私はもう大きいですから、自分一人で声に出さずに祈ります。コーリャとリーダチカはお母さんと一緒に声に出してやります。まず“至聖生神女様”と唱えて、それからもう一つのお祈りを唱えます。“神よ、姉のソーニャを許し、祝福し給え”、それからもう一度、“神よ、我らの別の父を許し、祝福し給え”、というのも私たちの年上のお父さんはすでに亡くなっていて、今のは私たちにとっては別のですから。でも私たちは亡くなった方のこともお祈りします。」

 

 「ポーレチカ、僕はロジオンと言います。いつか僕のことも祈ってください。“僕ロジオンも”それだけでいいです。」

 

 「これから先ずっとあなたのことも祈ります。」女の子は熱意を込めてそう言った。そして突然再び笑い出すと、彼に飛びついて再び強く抱きしめた。

 

 ラスコーリニコフは彼女に自分の名前を告げ、住所を教えると、明日必ず立ち寄ることを約束した。女の子は、彼によってすっかり有頂天にさせられて立ち去った。彼が通りに出たのは10時過ぎであった。5分後彼は橋の上にいた。それは先刻女がそこから身投げしたまさにあの橋であった。

 

 “沢山だ!――彼はきっぱりと真面目な調子で言った。――幻影よ消えろ、まやかしの恐怖よ去れ、幽霊どもは消え失せろ!・・生がある!今俺が生きていなかったとでも?俺の生は古びたばあさんと共に死んじまったわけじゃなかった!彼女の冥福を祈ります、そして――いやもう結構、ばあさん、死ぬべき時が来ていたのだ!今や理性と光の王国が・・・それに意志と、力の・・・さあどうなるか見てみよう!試してみようじゃないか!――彼は傲慢な調子で続けた。それはまるで何かしら闇の力に向かって話しかけ、それに挑戦しているかのようであった。――だって俺はすでに1アルシンの空間で生きることに同意したんだから!

 

 ・・・俺は今とても弱っている。だが・・・どうやら病はすべて消え去ったようだ。先刻家を出た時、そうなることは分かっていたんだ。それはそうと、ポチンコーフの建物はすぐそこだ。必ずラズミーヒンの元へ行かねば。たとえ近くでなかったとしてもだ・・・賭けには勝たせてやれ!・・。彼には笑わせてやろう。――そんなことは何でもない。させておけ!・・活力だ、活力が必要だ。活力が無くては何も始まらん。活力は活力をもってして獲得せねばならない。このことなんだ、連中が分かっていないのは。”――誇らしげな様子で自信満々にそう付け加えると、彼はよたよたした足取りで橋を後にした。誇りと自信は彼の中で一分ごとにふくらんでいった。1分経つ度に1分前の自分とはすでに異なるといった有様であった。しかしこれほど彼を激変させた特別なものとは一体何だったのか?彼自身にも分からなかった。溺れて藁をつかんでいたような男に、自分も“生きていいんだ、まだ生がある、老婆と共に自分の生が失われてしまったわけではなかった”、と突然思われた。もしかすると彼は結論を急ぎすぎたかもしれなかったが、そのことに思い至ってはいなかった。

 

 “だが僕ロジオンのことを祈るよう頼んだな。――突然頭の中で閃いた。――ふむそれは・・・万一に備えてのことだ!”――彼はそう付け加えると、その場で自分のした子供じみた悪ふざけのことを自分でも笑い出した。彼は最高の気分だった。

罪と罰88(2-7)

 「なんてこと!あの人の胸がすっかりつぶれちゃってる!血が、血が!」絶望して彼女は言った。「上着を全部脱がさないと!ちょっと回って、セミョーン・ザハローヴィチ、もしできるなら。」彼女は彼に大声で言った。

 

 マルメラードフは彼女を認識した。

 

 「司祭を!」かすれ声で彼は言った。

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナはその場を離れて窓際へ行くと、窓枠に額を押し付けてもたれ掛かり、絶望の叫び声を上げた。

 

 「くそみたいな人生だよ!」

 

 「司祭を!」束の間の沈黙があった後、死にかかっている者が再び言った。

 

 「どこへでも行けってんだよ!」カテリーナ・イヴァーノヴナは彼を怒鳴りつけた。彼はその一喝を受けて黙り込んだ。

 

 おずおずとした物悲しい目つきをして彼は彼女を目で探していた。彼女は再び彼の元に戻り枕頭に立った。彼はいくらか落ち着きを取り戻した。だがそれも長くは続かなかった。間もなく彼の目は幼いリードチカ(彼のお気に入り)の上に止まった。隅で発作を起こしているかのようにぶるぶる震え、点になった目で子供らしく一心に彼の方を見ていた彼女の上に。

 

 「あ・・・あ・・・」彼は落ち着きなく彼女の方を指し示していた。彼は何か言いたかった。

 

 「今度は何?」カテリーナ・イヴァーノヴナが大声で言った。

 

 「はだしだよ!はだし!」ぼけてしまったような目付きで娘の素足を指し示しながら彼はつぶやいた。

 

 「黙りなさい!」カテリーナ・イヴァーノヴナが怒声を浴びせた。「なんではだしなのかよく知ってるでしょうに!」

 

 「有り難い、医者です!」歓喜してラスコーリニコフが大声で告げた。

 

 やってきた医者は几帳面そうなおじいさんのドイツ人で、いぶかし気に辺りを見回しながら入ってきた。患者の元へ行くと脈を取り、慎重に頭を触診した。それからカテリーナ・イヴァーノヴナの助けを借りて、血で濡れたシャツのボタンを全て外すと患者の胸をはだけさせた。胸全体がめちゃめちゃで、踏みつぶされてひどく損なわれていた。右側の肋骨の何本かは完全に折れていた。左側の、ちょうど心臓の上に、不吉な、大きい黄みがかった黒い斑が出ていた。ひづめによる残酷な一撃の痕だ。医者は顔をしかめた。警官は、轢かれた人は車輪に服がはさまって、回転させられながら、舗装道路上を30歩ばかり引きずられた、と彼に話した。

 

 「意識を取り戻したのが不思議ですな。」医者はラスコーリニコフにそっと囁いた。

 

 「どうでしょうか?」とラスコーリニコフが尋ねた。

 

 「間もなくお亡くなりになるでしょう。」

 

 「望みは一切ないとでも?」

 

 「一縷もありません!臨終です・・・しかも頭に致命傷を負っている・・・ふむ。放血してもいいかもしれん・・・だが・・・無駄でしょうな。5分か10分後には間違いなく亡くなられるでしょう。」

 

 「それならいっそ放血してください!」

 

 「いいですが・・・しかしまあ言っておきますけど、こんなことは何の意味もありませんよ。」

 

 この時幾人かの足音が聞こえ、玄関にいた群衆が分かれて道を開けた。すると敷居に聖体を携えた司祭が現れた。白髪の小柄な老人だった。まだ通りにいるうちに警官が呼びに行っていたのだ。医者はすぐさま彼に場所を譲ると、意味ありげな視線を彼と交わした。ラスコーリニコフは医者にせめて今少し待ってくれるよう懇願した。彼は肩をすくめるとその場に留まった。

 

 全員が後ずさった。懺悔は非常に短かった。死にかかっている者が何か少しでも理解していたかは疑問である。切れ切れの不明瞭な音を発することしかできていなかった。カテリーナ・イヴァーノヴナはリーダチカを連れ、椅子から坊やを降ろすと、ペチカのある隅に行って跪き、子供たちは自分の前に跪かせた。少女は震えているばかりであった。坊やの方は、むきだしの膝の膝立ちで、ゆったりとした動作でお手てを上げ立派な十字を切ると、額を地につけるお辞儀をしていた。どうやらそれは彼に特別な満足をもたらしているようであった。カテリーナ・イヴァーノヴナは唇をかんで涙をこらえていた。彼女もまた祈りを捧げていた。時折子供のシャツを直したり、露わになりすぎになった少女の肩に三角の頭巾をかけたりしつつ。それは箪笥の上から取ったのだが、その際膝立ちは崩さず、祈りは続けたままだった。そのうち内側の部屋の戸がまた野次馬によって開放された。玄関は野次馬とすべての階からの借家人で更に一層ひしめき合っていた。もっとも部屋の敷居を越えてはいなかったけれども。たった一つのろうそくの燃えさしがこの全舞台を照らし出していた。

 

 この時、姉を呼びに一走り行っていたポーレニカが、玄関の群衆の間をさっと縫って入ってきた。中に入った彼女は、駆けて乱れた呼吸をどうにか落ち着かせると、ショールを取り、母を目で捉え近付いて言った。「向かってるわ!通りで会えた!」母は彼女を屈ませて膝立ちにさせると、自分の脇に据えた。群衆をかき分け静かにおずおずと少女が入ってきた。その突然の登場は、赤貧、おんぼろの服、死と絶望が充満するこの部屋において奇異に映った。彼女もまたぼろを身にまとっていた。その装いはチープであったが、ストリートガール風に、つまりその特別な世界において成立した趣味と規則にのっとって、明らかにそれと分かる屈辱的な狙いをもって飾り立てられていた。ソーニャは入口のちょうど敷居の上で立ち止まった。だが敷居は越えず、自失したようになって眺めていた。誰の手から買い取られたか分からない、絹の、この場には似つかわしくない、極端に長い滑稽な裾をしたカラフルなワンピースのことも、ドアを完全にふさいでしまっているやたら張り広げられたスカートのことも、光沢のあるブーツのことも、夜には必要ないのに持ってきた日傘のことも、目を引く真っ赤な羽のついた滑稽な丸い麦わら帽子のことも忘れ、何一つ認識せず眺めているように思われた。この子供っぽく横っちょに被られた帽子の下から、痩せた青白いびっくりしたような小顔が覗いていた。口はぽかんと開かれ、ショックのあまり目は点になっていた。ソーニャは背の低い18歳くらいのやせ型の女だった。だがかなり美しいブロンドの女性で、見事な青色の目をしていた。彼女は寝床の方を、司祭の方をじっと見ていた。彼女もまた早足のせいで息切れがしていた。ようやくひそひそ声が、群衆の中の2,3の言葉が彼女の耳にまで届いたのだろう。彼女は目を伏せ、敷居を一歩またいで部屋の中に入った。だがまだちょうど入口のところだった。

 

 説教と聖餐式が終わった。カテリーナ・イヴァーノヴナは再び夫の寝床へ近寄った。司祭はその場を離れ、去り際に、カテリーナ・イヴァーノヴナに励ましと慰めの言葉を2,3かけようと振り向きかけた。

 

 「私はこの子たちをどこへやったらいいんです?」苛立ったように彼女は相手の発言を荒々しく遮った。子どもたちを指しつつ。

 

 「神は情け深い。神のご加護を期待してください。」司祭は説教を始めようとした。

 

 「あーっ!情け深いのに、私たちにはそうでなかった!」

 

 「それは恐れ多いことです。恐れ多いことですぞ。奥様。」司祭は頭をふりつつたしなめた。

 

 「ならこれは恐れ多いことではないんですか?」カテリーナ・イヴァーノヴナは死にゆくものを示しながら大声で言った。

 

 「おそらく、偶然にも今回のことの原因となってしまった人たちが、あなたに報いることに同意するでしょう、せめて失われた収入に関しては・・・」

 

 「私の言ってることをあなたは分かってない!」手を振るとカテリーナ・イヴァーノヴナが苛立ったようにして叫んだ。「一体何に対して報いてくれるんですか?だって彼が酔っぱらって、勝手に馬の下に入り込んだんじゃない!どんな収入が?あの人からお金なんて入って来ないわよ、苦しみしかなかった。だって彼はアル中でいつも飲んだくれてたんだから。私たちのものを掠め取って居酒屋に持ちこんで、あの子たちと私の生活費を居酒屋で使い果たしやがった!ほんと有難いことです。くたばりかけてんだから!損失が減るわ!」

 

 「今際の際に許す必要があります。それは罪ですぞ。奥様。そんな感情は大きな罪です!」

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは病人の傍らで慌ただしくしていた。彼に水を差し出したり、頭部の汗や血をふき取ったり、枕の位置を直したり、それらの合間に機を見て時折司祭に話しかけたりしていた。今彼女はほとんど無我夢中で突然彼に襲い掛かった。

「罪と罰」87(2-7)

 カテリーナ・イヴァーノヴナは、例のごとく、空いた時間ができるとすぐ小さな部屋の中を行きつ戻りつすることに取り掛かっていた。窓からペチカまで行っては戻り、手をぎゅっと胸の前で組み、独り言ち、咳き込みながら。最近彼女はますますしげく長い時間自分の年長の娘、10歳になるポーレニカと話し込むようになっていた。彼女はまだ多くを理解しなかったが、その代わり母が何を必要としているかを非常に良く理解していた。それゆえその大きな賢そうな瞳でいつも母を注視し、すべてを理解していると思われるよう一生懸命演じているのだった。今ポーレニカは小さな弟の服を脱がせてやっていた。一日中調子が悪かった彼を寝かしつけるためだ。待っている間、つまり夜洗濯することになっているシャツを交換してもらっている間、坊やは黙って椅子に腰かけていた。真面目そうな顔をして、まっすぐ座って動かず、前に突き出された足はぴたっとくっつけられ、かかとは観客の方を向き、つま先は外に開いていた。彼はお母さんが姉と話すのを聞いていた。ふくれっ面をして目を見張り、少しも動くことなく。それはちょうど、就寝するために服を脱がされている時、利口な坊やなら誰しも普通しなければならないまさにその様子で座っているのだった。もっと幼い彼の妹は、すっかりぼろぼろになった服を着て衝立の所に立ち、自分の順番を待っていた。階段に通じるドアは開け放たれていた。せめて少しでもタバコの煙の流入を防ぐためだ。それは他の部屋部屋から押し寄せ、ひっきりなしに哀れな肺病患者を長時間、苦し気に咳き込ませていた。カテリーナ・イヴァーノヴナはこの一週間でさらに痩せ細ったようであった。頬の赤い斑点は以前より一層鮮やかになっていた。

 

 「お前は信じない、想像すらできないね、ポーレニカ」部屋の中を歩き回りながら彼女は言った。「どれほど私らが父ちゃんの家で愉快に豪華に暮らしていたか、そしてあのアル中がどうやって私を破滅させたか、お前たちみんなを破滅させてしまうか!お父さんは6等官で、ほとんどもう県知事だったんだよ。あとほんの一歩が残ってただけなんだから、みんなやってきて言ってたもんです。“我々はあなたをもう我らの県知事とみなしております、イヴァン・ミハイリィチ”。私が・・・こふっ!私が・・・こふっ、こふっ、こふっ・・・ああ、くそみたいな人生だ!」痰を吐き出しながら胸を抑え彼女は叫んだ。「私が・・・ああ、最後の舞踏会で・・・長官のとこのね・・・ベズゼメリナヤ公爵夫人が私を認めて、彼女は後に、私がお前のお父ちゃんと結婚する時に祝福してくれたんだけれども、ポーリャ、その場で尋ねたのよ。“この可愛らしい娘さんは、卒業式の時ショールを巻いて踊っていたあの子じゃなくって?”・・(綻びを繕わないと。ほら針を取って今直しちゃったらいいじゃない、私がお前に教えたように、そうじゃなきゃ明日・・・こふっ!明日・・・こふっ、こふっ、こふっ!・・もっと破いちゃうよ!――へとへとになりつつ彼女は大声で言った。)・・・あの時まだペテルブルグからやって来たばかりの少年侍従のシェゴリスコイ公爵が・・・私とマズルカを踊ってね、その翌日にだよ、プロポーズをしに伺いたいとなったのさ。でも私は相手を満足させる表現で感謝を述べておいてから言ったのさ。私の心はずっと前から別の方のものです、って。この別の方というのはお前のお父ちゃんだったんだけどね、ポーリャ。お父ちゃんはえらく怒ってたよ・・・時に水の準備はできたの?さあ、シャツをちょうだい、長靴下は?・・リーダ」彼女は小さな娘に話しかけた。「お前はもうそのままで、シャツなしで今晩は寝な。どうにかして・・・それから長靴下も並べて出しといて・・・一緒に洗うわ・・・あのくずが帰ってこないのはどうした訳だろう、アル中が!着古してシャツがぼろきれかなんかみたい。そこら中破いちゃって・・・いっそみんなまとめてやっちゃおうか。二晩続けて苦しまないように!ああ神様!こふっ、こふっ、こふっ、こふっ!まただよ!あれは何?」彼女は叫んだ。その視線の先には、入り口の人だかりと彼女の家の中に何やら重荷を持って押し分けて入ってくる人々があった。「あれは何?何を運んでいるの?おお神様!」

 

 「どこに置いたらいいですか?」と辺りを見回しながら警官が尋ねた時、血だらけで意識のないマルメラードフはすでに部屋の中に引き入れられていた。

 

 「ソファーの上に!ソファーの上に直に置いてください。こっちに頭がくるように。」ラスコーリニコフが指示した。

 

 「通りで轢かれちまったんだよ!酔っ払いがさ!」誰かが陰で大声を上げた。

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは顔面蒼白で立ち尽くしたまま、苦しそうに息をしていた。子供たちは面食らっていた。幼いリードチカは叫び声を上げると、ポーレニカの元へ駆け寄り、彼女に抱き付くと全身が震え出した。

 

 マルメラードフを寝かせると、ラスコーリニコフはすぐさまカテリーナ・イヴァーノヴナの元へ行った。

 

 「どうかお願いですから落ち着いてください。びっくりしないでください!」彼は早口で言った。「彼が通りを渡っていて、幌馬車が彼を轢いたんです。心配しないでください。意識は戻ります。僕がここへ運ぶよう指示しました・・・僕はあなた方のとこへ来たことがありましたので、覚えていますでしょ・・・意識は戻ります。金は僕が払います!」

 

 「やっと来たわ!」絶望の声を上げてカテリーナ・イヴァーノヴナは夫の元へ駆け寄った。

 

 ラスコーリニコフは、この女性がすぐ気絶する類の人でないことをたちまち見て取った。瞬時にして不幸な男の頭の下に枕が置かれていたのだ。そのことは今までまだ誰も思いついていなかった。カテリーナ・イヴァーノヴナは彼の服を脱がし観察を始めた。気持ちは急いていたが度を失うこともなく、自分自身のことはすっかり忘れ、震える唇を咬み、胸元から飛び出そうになっている叫び声をぐっとこらえながら。

 

 ラスコーリニコフはその間に医者を呼んできてもらうよう誰かを説得した。医者は隣の隣に住んでいることが判明した。

 

 「医者を呼びにやらせてあります。」彼は同じことをカテリーナ・イヴァーノヴナに繰り返していた。「落ち着いてください。支払いは僕がします。水はありませんか?・・それからナプキン、タオルか何かください、なるべく早く。彼のけががどの程度なのかまだ分かりません・・・彼は傷を負っているんで、死んでしまったわけじゃありませんから、どうぞご心配なく・・・医者が何と言うか!」

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは窓の方へ飛んで行った。そこには、角がへこんだ椅子の上に水の入った大きな素焼きの水盤が置かれていた。それは子供と夫の洗い物を夜洗濯するために準備されていたものだった。この夜の洗濯はカテリーナ・イヴァーノヴナ自身によって、その自らの手で、少なくとも一週間に二度、時にはそれ以上行われていた。その理由はこうである。この家は替えの下着がもうほとんどなというところまで来ており、家族のそれぞれに替えが一枚ずつしかなかった。だがカテリーナ・イヴァーノヴナは汚れ物が我慢ならない。そこで家の中で汚れものを目にするよりも、朝までに張った縄の上で濡れた下着を乾かし、清潔なものを着させられるよう、夜毎に無理をしてでも、皆が寝ている間に、自分に鞭打った方がましだとしたからである。彼女はラスコーリニコフの求めに応じ水盤を持っていこうと手に取りかけたが、あやうくそれを持って転ぶところだった。ところがラスコーリニコフはすでにタオルを見つけていて、それを水で濡らし、血だらけのマルメラードフの顔をきれいにし始めていた。カテリーナ・イヴァーノヴナはその場に立ったまま、辛そうに息を継ぎ、両手で胸を抑えていた。彼女自身助けを必要としていた。ラスコーリニコフは、ここに轢かれた人を運ぶよう説得したのはまずかったかもしれないと思い始めていた。巡査もまた当惑して立っていた。

 

 「ポーリャ!」突然カテリーナ・イヴァーノヴナが叫んだ。「ソーニャのとこへ行きなさい。なるべく早く。もし家で見つけられなかったとしても、とにかく言うの。お父さんが馬に轢かれた、すぐここに来るようにって・・・帰ったらすぐに。急ぎな、ポーリャ!ほら、ショールを掛けて!」

 

 「ぜんりょきで行って!」突然椅子の上から坊やが叫んだ。彼はそう言うと、また以前のように黙ってまっすぐ椅子に腰かけることに没頭した。目を見開き、かかとは前、つま先はそっぽを向けて。

 

 そうこうしてる間に部屋は埋め尽くされ、リンゴが落ちる隙間もないという有様であった。警官たちは一人を除いて出て行った。その一人はしばらく残り、階段からなだれ込んできた連中を、再び元の階段へ追っ払おうと奮闘していた。その代わりに、内側の部屋からリッペベフゼリ夫人の下宿人ほとんどすべてがどかどか出てきて、最初はドアのところだけに群がりかけたのだが、すぐ当の部屋の中に群れをなしてなだれ込んできた。カテリーナ・イヴァーノヴナは激昂した。

 

 「せめて安らかに行かせてやってください!」彼女は群衆に向けて大声で言った。「大層な見世物にありつけましたね!くわえたばこなんかして!こふっ、こふっ、こふっ!帽子被ったまま入ってきてくださいよ!・・それでも帽子被っているのが一人・・・出てけ!死に行くものに対してせめて敬意を払ってください!」

 

 咳が彼女にそれ以上を言わせなかった。だが警告は功を奏した。見たところカテリーナ・イヴァーノヴナをやや恐れてさえいるようだった。借家人たちは次次にドアの方へ押し分け戻って行った。妙な精神的満足感を得て。それは隣人の突然の不幸の際、その極めて近しい人々においてさえ常に認められるもので、それから逃れられるものは一切なく、しかも極めて誠実な憐みと同情を抱いているにもかかわらずそうなのだ。

 

 とは言え、ドアの向こうでは病院に関する意見や、ここで無駄に煩わしいことをすべきじゃないといった声が聞こえていた。

 

 「死なせるんじゃないよ!」カテリーナ・イヴァーノヴナは叫ぶと、連中に雷を落とすため、ドアを開けに突進しかけた時、ドアの手前で当のリッペベフゼリ夫人とかちあわせた。彼女はこの不幸な出来事を耳にするやいなや、騒ぎを収めようと走ってきたのだった。この人は極度に間の抜けた、だらしないドイツ人女性であった。

 

 「ああ、なんてこと!」彼女は手を打った。「あなたの夫酔っ払い馬が踏みした。病院へ彼を!私は家主です!」

 

 「アマリヤ・リュドヴィゴヴナ!お願いだからあなたが言っていることを思い出してちょうだい。」カテリーナ・イヴァーノヴナが見下すような調子(女家主に“自分の立場”を思い知らせるために、彼女はいつも見下した調子で女家主と話しており、今でさえその喜びを諦めることはできなかった。)で言いかけた。「アマリヤ・リュドヴィゴヴナ・・・」

 

 「私はあなたに一度前言いました。決して私のことをアマリ・リュドヴィゴブナと言わないでって。私はアマリ・イヴァンです!」

 

 「あなたはアマリ・イヴァンではなく、アマリヤ・リュドヴィゴヴナです。それに私はあなたの卑しい取り巻きじゃありません。レベジャートニコフさんみたいな。あの人は今ドアの向こうで笑ってますよ。(ドアの向こうでは実際笑い声と“けんかが始まったぞ”という叫び声が響いていた。)なのであなたのことはずっとアマリヤ・リュドヴィゴヴナと呼びます。もっとも何であなたがその呼び方が気に入らないのか私には全くもってして理解できませんが。あなただって分かるでしょ。セミョーン・ザハローヴィチの身に何が起きたのかくらい。彼は死にかかってるんですよ。お願いですからすぐこのドアに鍵を掛けて、ここに誰も入って来られないようにしてください。せめて安らかに死なせてやってください!さもないともう明日には間違いなく、あなたのすることは他ならぬ県知事閣下の耳に入ることになるでしょうね。公爵は私のことを嫁入り前から知っていて、セミョーン・ザハローヴィチのことはそりゃもうよく覚えていて、何度も彼に救いの手を差し伸べてくれたんですから。みな知ってることですが、セミョーン・ザハローヴィチには多くの友人と庇護者がいました。彼らとは高潔な自尊心ゆえに自分から関係を断ちました。自分の不幸な弱点を自覚してのことです。ですが今(彼女はラスコーリニコフを指し示した。)一人の器の大きい若者が私たちに救いの手を差し伸べてくれています。資金と後ろ盾を持った。セミョーン・ザハローヴィチは彼をまだ子供の時から知っています。ですからどうぞご心配なく、アマリヤ・リュドヴィゴブナ・・・」

 

 これらすべてがとんでもない早口で言われた。長くなればなるほど早くなった。だが咳がカテリーナ・イヴァーノヴナの雄弁をぷつりと断ち切った。ちょうどこの時、死にかけている男が意識を取り戻して呻いた。彼女は彼の元へ駆け寄った。病人は目を開いた。認識も理解もしないままに、彼の上に覆いかぶさるように立っていたラスコーリニコフをじっと見つめ出した。その呼吸は重く、深く、そしてまれであった。唇の縁には血が滲み出ており、額には汗が出ていた。彼はラスコーリニコフを誰とも分らなかったので、不安そうに見回し始めた。カテリーナ・イヴァーノヴナは彼に物悲しくも厳しい視線を向けていた。彼女の目からは涙が流れていた。

「罪と罰」86(2-7)

 通りの真ん中に止まっていたのは、威勢のいい灰色の馬2頭がつけられた洒落た地主貴族の幌馬車であった。乗っている者はおらず、御者自身も御者台から降りて脇に立っており、馬は馬勒で抑えられていた。辺りは人がひしめき合っており、人だかりの前方には警察官がいた。そのうちの一人は点火された灯火を両手で持ち、それで舗装道路上のちょうど車輪のところにある何かを屈みながら照らしていた。みなが話し、叫び、ああと嘆声を上げていた。御者は困惑の体で時折繰り返し言っていた。「なんちゅう災難だ!神様、なんという災難を!」

 

 ラスコーリニコフは可能な限り分け入って行って、ようやくこの空騒ぎと好奇心の対象となっているものを見た。地面には今しがた馬に轢かれたばかりの人が横たわっていた。見たところ意識はなく、ひどい身なりをしていたが、上品な服を身に付けており、全身血まみれであった。顏や頭から血が流れ、顔面は傷だらけで、皮が剥がれ、歪んでいた。冗談ではすまない轢かれ方をしているのは明らかだった。

 

 「皆さん!」御者は泣いて訴えていた。「いったいどうやったら分かるっちゅうんです!もしあっしが飛ばしてたなら、あるいは彼に叫んでいなかったのならともかく、急いでなんかねえし一定のスピードで走ってたんですから。みんな見てましたぜ。俺が悪いならみんなも悪い。酔っ払いにろうそくを立てられるはずはねえ――分かり切ったこっちゃないですか!・・あの人には気付いてて、通りを渡ってました。ふらふらして倒れそうだった――1回目叫びました、そして2回目、そして三回目、そんで馬たちを止めたんです。でも彼は結局もろ馬の足下に倒れ込んじまった!わざとやったのか、あるいはひどく酔っ払ってたのか・・・馬たちゃ若くて怯えやすいんでさ、――急に動き出した、彼は大声を出す――馬たちはもっと動いた・・・でこの災難です。」

 

 「その通りだ!」誰かしら証人の声が群衆の中から上がった。

 

 「彼が叫んだのは間違いない。3回叫んでた。」別の声が反応した。

 

 「きっかり三回だ。みんな聞いてたよ!」3番目の大きな声が響いた。

 

 とは言え御者はそれほど落胆してショックを受けているでもなかった。馬車の持ち主は裕福な有力者でどこかでその到着を待っているというのが見て取れた。警察は当然ながらこの最終的な状況にどうけりをつけるか少なからず苦慮していた。まずは轢かれた人を警察署へ、そして病院へと収容しなければならなかった。誰も彼の名前を知らなかった。

 

 とかくするうちにラスコーリニコフは分け入って行き、より近くへと屈み込んだ。突然灯火が不幸な男の顔を明るく照らした。彼はその人を知っていた。

 

 「彼を知ってる、知ってるぞ!」押し分けて先頭に出つつ彼は叫んだ。「この人は官吏です。退職してて、9等文官で、マルメラードフと言うんです!彼はこの辺りに住んでて、すぐ近くですよ、コゼーリの建物です・・・医者を早く!僕が払いますから、ほら!」彼はポケットから金を抜き出し警察官に見せた。彼は異常なほど興奮していた。

 

 警官たちは轢かれた人が誰なのか分かり満足していた。ラスコーリニコフは自分の名前も告げ、住所を知らせた。そして一生懸命になって、まるで自分の父親の事であるかのように、なるべく早く意識のないマルメラードフを彼のアパートに運ぶよう説得していた。

 

 「ほらそこ、3軒先です。」彼は必死だった。「コゼーリの建物、ドイツ人の、金持の・・・彼は今多分酔っ払ってて、家にこっそり帰るところだったんですよ。僕は彼のことを知ってます・・・アル中なんですよ・・・むこうには彼の家族、妻と子供たちが住んでて、娘が一人います。病院まで運ぶのにはまだかかりそうですが、ここにはきっと建物のどこかしらに医者がいるはずです!僕が払います、払いますから!・・とにかく処置をしないと、今やらないと、病院に行く前に死んでしまいますよ・・・」

 

 彼は気付かれないよう警官の手の中に押し込みさえしたが、事態は明白で違法な事ではなかった。いずれにせよこの場合助けは得られやすかった。轢かれた男は持ち上げられ、運ばれ始めた。助けてくれる人たちは見つかった。コゼーリの建物は30歩ばかりのところにあった。ラスコーリニコフは後方について慎重に頭を保持し、道を示して歩いた。

 

 「こっちです、こっち!階段は頭を上にして運ばないと、回転させてください・・・そうです!払います、お礼しますよ。」と彼はつぶやいていた。