「罪と罰」87(2-7)

 カテリーナ・イヴァーノヴナは、例のごとく、空いた時間ができるとすぐ小さな部屋の中を行きつ戻りつすることに取り掛かっていた。窓からペチカまで行っては戻り、手をぎゅっと胸の前で組み、独り言ち、咳き込みながら。最近彼女はますますしげく長い時間自分の年長の娘、10歳になるポーレニカと話し込むようになっていた。彼女はまだ多くを理解しなかったが、その代わり母が何を必要としているかを非常に良く理解していた。それゆえその大きな賢そうな瞳でいつも母を注視し、すべてを理解していると思われるよう一生懸命演じているのだった。今ポーレニカは小さな弟の服を脱がせてやっていた。一日中調子が悪かった彼を寝かしつけるためだ。待っている間、つまり夜洗濯することになっているシャツを交換してもらっている間、坊やは黙って椅子に腰かけていた。真面目そうな顔をして、まっすぐ座って動かず、前に突き出された足はぴたっとくっつけられ、かかとは観客の方を向き、つま先は外に開いていた。彼はお母さんが姉と話すのを聞いていた。ふくれっ面をして目を見張り、少しも動くことなく。それはちょうど、就寝するために服を脱がされている時、利口な坊やなら誰しも普通しなければならないまさにその様子で座っているのだった。もっと幼い彼の妹は、すっかりぼろぼろになった服を着て衝立の所に立ち、自分の順番を待っていた。階段に通じるドアは開け放たれていた。せめて少しでもタバコの煙の流入を防ぐためだ。それは他の部屋部屋から押し寄せ、ひっきりなしに哀れな肺病患者を長時間、苦し気に咳き込ませていた。カテリーナ・イヴァーノヴナはこの一週間でさらに痩せ細ったようであった。頬の赤い斑点は以前より一層鮮やかになっていた。

 

 「お前は信じない、想像すらできないね、ポーレニカ」部屋の中を歩き回りながら彼女は言った。「どれほど私らが父ちゃんの家で愉快に豪華に暮らしていたか、そしてあのアル中がどうやって私を破滅させたか、お前たちみんなを破滅させてしまうか!お父さんは6等官で、ほとんどもう県知事だったんだよ。あとほんの一歩が残ってただけなんだから、みんなやってきて言ってたもんです。“我々はあなたをもう我らの県知事とみなしております、イヴァン・ミハイリィチ”。私が・・・こふっ!私が・・・こふっ、こふっ、こふっ・・・ああ、くそみたいな人生だ!」痰を吐き出しながら胸を抑え彼女は叫んだ。「私が・・・ああ、最後の舞踏会で・・・長官のとこのね・・・ベズゼメリナヤ公爵夫人が私を認めて、彼女は後に、私がお前のお父ちゃんと結婚する時に祝福してくれたんだけれども、ポーリャ、その場で尋ねたのよ。“この可愛らしい娘さんは、卒業式の時ショールを巻いて踊っていたあの子じゃなくって?”・・(綻びを繕わないと。ほら針を取って今直しちゃったらいいじゃない、私がお前に教えたように、そうじゃなきゃ明日・・・こふっ!明日・・・こふっ、こふっ、こふっ!・・もっと破いちゃうよ!――へとへとになりつつ彼女は大声で言った。)・・・あの時まだペテルブルグからやって来たばかりの少年侍従のシェゴリスコイ公爵が・・・私とマズルカを踊ってね、その翌日にだよ、プロポーズをしに伺いたいとなったのさ。でも私は相手を満足させる表現で感謝を述べておいてから言ったのさ。私の心はずっと前から別の方のものです、って。この別の方というのはお前のお父ちゃんだったんだけどね、ポーリャ。お父ちゃんはえらく怒ってたよ・・・時に水の準備はできたの?さあ、シャツをちょうだい、長靴下は?・・リーダ」彼女は小さな娘に話しかけた。「お前はもうそのままで、シャツなしで今晩は寝な。どうにかして・・・それから長靴下も並べて出しといて・・・一緒に洗うわ・・・あのくずが帰ってこないのはどうした訳だろう、アル中が!着古してシャツがぼろきれかなんかみたい。そこら中破いちゃって・・・いっそみんなまとめてやっちゃおうか。二晩続けて苦しまないように!ああ神様!こふっ、こふっ、こふっ、こふっ!まただよ!あれは何?」彼女は叫んだ。その視線の先には、入り口の人だかりと彼女の家の中に何やら重荷を持って押し分けて入ってくる人々があった。「あれは何?何を運んでいるの?おお神様!」

 

 「どこに置いたらいいですか?」と辺りを見回しながら警官が尋ねた時、血だらけで意識のないマルメラードフはすでに部屋の中に引き入れられていた。

 

 「ソファーの上に!ソファーの上に直に置いてください。こっちに頭がくるように。」ラスコーリニコフが指示した。

 

 「通りで轢かれちまったんだよ!酔っ払いがさ!」誰かが陰で大声を上げた。

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは顔面蒼白で立ち尽くしたまま、苦しそうに息をしていた。子供たちは面食らっていた。幼いリードチカは叫び声を上げると、ポーレニカの元へ駆け寄り、彼女に抱き付くと全身が震え出した。

 

 マルメラードフを寝かせると、ラスコーリニコフはすぐさまカテリーナ・イヴァーノヴナの元へ行った。

 

 「どうかお願いですから落ち着いてください。びっくりしないでください!」彼は早口で言った。「彼が通りを渡っていて、幌馬車が彼を轢いたんです。心配しないでください。意識は戻ります。僕がここへ運ぶよう指示しました・・・僕はあなた方のとこへ来たことがありましたので、覚えていますでしょ・・・意識は戻ります。金は僕が払います!」

 

 「やっと来たわ!」絶望の声を上げてカテリーナ・イヴァーノヴナは夫の元へ駆け寄った。

 

 ラスコーリニコフは、この女性がすぐ気絶する類の人でないことをたちまち見て取った。瞬時にして不幸な男の頭の下に枕が置かれていたのだ。そのことは今までまだ誰も思いついていなかった。カテリーナ・イヴァーノヴナは彼の服を脱がし観察を始めた。気持ちは急いていたが度を失うこともなく、自分自身のことはすっかり忘れ、震える唇を咬み、胸元から飛び出そうになっている叫び声をぐっとこらえながら。

 

 ラスコーリニコフはその間に医者を呼んできてもらうよう誰かを説得した。医者は隣の隣に住んでいることが判明した。

 

 「医者を呼びにやらせてあります。」彼は同じことをカテリーナ・イヴァーノヴナに繰り返していた。「落ち着いてください。支払いは僕がします。水はありませんか?・・それからナプキン、タオルか何かください、なるべく早く。彼のけががどの程度なのかまだ分かりません・・・彼は傷を負っているんで、死んでしまったわけじゃありませんから、どうぞご心配なく・・・医者が何と言うか!」

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは窓の方へ飛んで行った。そこには、角がへこんだ椅子の上に水の入った大きな素焼きの水盤が置かれていた。それは子供と夫の洗い物を夜洗濯するために準備されていたものだった。この夜の洗濯はカテリーナ・イヴァーノヴナ自身によって、その自らの手で、少なくとも一週間に二度、時にはそれ以上行われていた。その理由はこうである。この家は替えの下着がもうほとんどなというところまで来ており、家族のそれぞれに替えが一枚ずつしかなかった。だがカテリーナ・イヴァーノヴナは汚れ物が我慢ならない。そこで家の中で汚れものを目にするよりも、朝までに張った縄の上で濡れた下着を乾かし、清潔なものを着させられるよう、夜毎に無理をしてでも、皆が寝ている間に、自分に鞭打った方がましだとしたからである。彼女はラスコーリニコフの求めに応じ水盤を持っていこうと手に取りかけたが、あやうくそれを持って転ぶところだった。ところがラスコーリニコフはすでにタオルを見つけていて、それを水で濡らし、血だらけのマルメラードフの顔をきれいにし始めていた。カテリーナ・イヴァーノヴナはその場に立ったまま、辛そうに息を継ぎ、両手で胸を抑えていた。彼女自身助けを必要としていた。ラスコーリニコフは、ここに轢かれた人を運ぶよう説得したのはまずかったかもしれないと思い始めていた。巡査もまた当惑して立っていた。

 

 「ポーリャ!」突然カテリーナ・イヴァーノヴナが叫んだ。「ソーニャのとこへ行きなさい。なるべく早く。もし家で見つけられなかったとしても、とにかく言うの。お父さんが馬に轢かれた、すぐここに来るようにって・・・帰ったらすぐに。急ぎな、ポーリャ!ほら、ショールを掛けて!」

 

 「ぜんりょきで行って!」突然椅子の上から坊やが叫んだ。彼はそう言うと、また以前のように黙ってまっすぐ椅子に腰かけることに没頭した。目を見開き、かかとは前、つま先はそっぽを向けて。

 

 そうこうしてる間に部屋は埋め尽くされ、リンゴが落ちる隙間もないという有様であった。警官たちは一人を除いて出て行った。その一人はしばらく残り、階段からなだれ込んできた連中を、再び元の階段へ追っ払おうと奮闘していた。その代わりに、内側の部屋からリッペベフゼリ夫人の下宿人ほとんどすべてがどかどか出てきて、最初はドアのところだけに群がりかけたのだが、すぐ当の部屋の中に群れをなしてなだれ込んできた。カテリーナ・イヴァーノヴナは激昂した。

 

 「せめて安らかに行かせてやってください!」彼女は群衆に向けて大声で言った。「大層な見世物にありつけましたね!くわえたばこなんかして!こふっ、こふっ、こふっ!帽子被ったまま入ってきてくださいよ!・・それでも帽子被っているのが一人・・・出てけ!死に行くものに対してせめて敬意を払ってください!」

 

 咳が彼女にそれ以上を言わせなかった。だが警告は功を奏した。見たところカテリーナ・イヴァーノヴナをやや恐れてさえいるようだった。借家人たちは次次にドアの方へ押し分け戻って行った。妙な精神的満足感を得て。それは隣人の突然の不幸の際、その極めて近しい人々においてさえ常に認められるもので、それから逃れられるものは一切なく、しかも極めて誠実な憐みと同情を抱いているにもかかわらずそうなのだ。

 

 とは言え、ドアの向こうでは病院に関する意見や、ここで無駄に煩わしいことをすべきじゃないといった声が聞こえていた。

 

 「死なせるんじゃないよ!」カテリーナ・イヴァーノヴナは叫ぶと、連中に雷を落とすため、ドアを開けに突進しかけた時、ドアの手前で当のリッペベフゼリ夫人とかちあわせた。彼女はこの不幸な出来事を耳にするやいなや、騒ぎを収めようと走ってきたのだった。この人は極度に間の抜けた、だらしないドイツ人女性であった。

 

 「ああ、なんてこと!」彼女は手を打った。「あなたの夫酔っ払い馬が踏みした。病院へ彼を!私は家主です!」

 

 「アマリヤ・リュドヴィゴヴナ!お願いだからあなたが言っていることを思い出してちょうだい。」カテリーナ・イヴァーノヴナが見下すような調子(女家主に“自分の立場”を思い知らせるために、彼女はいつも見下した調子で女家主と話しており、今でさえその喜びを諦めることはできなかった。)で言いかけた。「アマリヤ・リュドヴィゴヴナ・・・」

 

 「私はあなたに一度前言いました。決して私のことをアマリ・リュドヴィゴブナと言わないでって。私はアマリ・イヴァンです!」

 

 「あなたはアマリ・イヴァンではなく、アマリヤ・リュドヴィゴヴナです。それに私はあなたの卑しい取り巻きじゃありません。レベジャートニコフさんみたいな。あの人は今ドアの向こうで笑ってますよ。(ドアの向こうでは実際笑い声と“けんかが始まったぞ”という叫び声が響いていた。)なのであなたのことはずっとアマリヤ・リュドヴィゴヴナと呼びます。もっとも何であなたがその呼び方が気に入らないのか私には全くもってして理解できませんが。あなただって分かるでしょ。セミョーン・ザハローヴィチの身に何が起きたのかくらい。彼は死にかかってるんですよ。お願いですからすぐこのドアに鍵を掛けて、ここに誰も入って来られないようにしてください。せめて安らかに死なせてやってください!さもないともう明日には間違いなく、あなたのすることは他ならぬ県知事閣下の耳に入ることになるでしょうね。公爵は私のことを嫁入り前から知っていて、セミョーン・ザハローヴィチのことはそりゃもうよく覚えていて、何度も彼に救いの手を差し伸べてくれたんですから。みな知ってることですが、セミョーン・ザハローヴィチには多くの友人と庇護者がいました。彼らとは高潔な自尊心ゆえに自分から関係を断ちました。自分の不幸な弱点を自覚してのことです。ですが今(彼女はラスコーリニコフを指し示した。)一人の器の大きい若者が私たちに救いの手を差し伸べてくれています。資金と後ろ盾を持った。セミョーン・ザハローヴィチは彼をまだ子供の時から知っています。ですからどうぞご心配なく、アマリヤ・リュドヴィゴブナ・・・」

 

 これらすべてがとんでもない早口で言われた。長くなればなるほど早くなった。だが咳がカテリーナ・イヴァーノヴナの雄弁をぷつりと断ち切った。ちょうどこの時、死にかけている男が意識を取り戻して呻いた。彼女は彼の元へ駆け寄った。病人は目を開いた。認識も理解もしないままに、彼の上に覆いかぶさるように立っていたラスコーリニコフをじっと見つめ出した。その呼吸は重く、深く、そしてまれであった。唇の縁には血が滲み出ており、額には汗が出ていた。彼はラスコーリニコフを誰とも分らなかったので、不安そうに見回し始めた。カテリーナ・イヴァーノヴナは彼に物悲しくも厳しい視線を向けていた。彼女の目からは涙が流れていた。