「罪と罰」41(1−7)

 ドアがこの前と同じようにごく僅かな隙間の分だけ開くと、再び二つの鋭い猜疑心に満ちた視線が暗闇の中から彼の方に向けひたと据えられた。この時ラスコーリニコフはどぎまぎして危うく致命的な失敗をやらかしてしまうところだった。

 老婆が彼らの他に誰もいないことを恐れてしまうのではないかと危ぶみ、また自分の様子が彼女の不審を晴らすとも思えなかったので、彼はドアに手をかけると手前に引いてしまった。老婆がどうかしてまた引きこもろうとするのを恐れてのことである。これを受け彼女はドアを逆に手前に引こうとはしなかったが鍵の取っ手も放しはしなかったので、彼は危うく彼女をドアと一緒に階段の方へ引きずり出すところであった。彼女が入り口のところで遮るようにして立ち彼を通そうとしていないのを確かに見て取ると、彼は真っ直ぐ彼女目がけて突進した。彼女は驚いて飛び退き何か言いかけたが、あたかも言葉を発せられないような状態になり彼の方をじっと見つめていた。

 「こんにちは、アリョーナ・イヴァーノヴナ」彼はできるだけ打ち解けた調子で話しかけたが、声は彼の意に反し、途切れ、震えだした。

 「僕はあなたに・・・物を持って来ました・・・まあどうですこっちへ行きませんか・・・明るい方に・・・」すると彼は彼女を置き去りにして、断りもせず真っ直ぐ部屋の中に入って行った。老婆が彼の後を追いかけ始めると、ようやくその舌もほぐれた。

 「おやおや!いったいどうしたって言うんです?・・一体どちらさん?何の御用です?」

 「それはないですよ、アリョーナ・イヴァーノヴナ・・・知り合いじゃないですか・・・ラスコーリニコフです・・・ほら質草を持って来ました。この前約束したやつですよ・・・」そして彼は彼女に質草を差し出した。

 老婆は質草の方に目を遣りかけたが、すぐ招かれざる客の目を真っ直ぐ見据えた。その視線は注意深く、敵意があり不審に満ちていた。1分ばかりが経過すると、彼女の視線の中に嘲りに似た何かが含まれているようにさえ彼には思われた。まるですでに何もかもお見通しだとでも言わんばかりの。彼は気が動転するのを、またほとんど恐怖しているのを感じた。あまり恐れたものだから、仮に彼女がそのまま見続け、あと30秒ほど一言も発しなかったなら、彼は彼女のところから逃げ出していたはずである。

 「一体どうしてそんな風に見るんです、まるで初対面みたいじゃないですか?」そう彼が突然発した言葉にも敵意がこもっていた。「気に入ったなら取って下さい。でなければ他をあたります。時間がないので。」

 彼はこんなことを言うつもりなどなかったのだが、そうなった。独りでに突然口を衝いて出たのだ。

 老婆は冷静さを取り戻した。客の決然とした調子がどうやら彼女を元気づけたようだった。

 「一体何だってあんたは、旦那さん、あんな急に・・・一体何です?」そう尋ねた彼女の目は質草の方に向けられていた。

 「銀の巻煙草入れです。この前言ったじゃないですか。」

 彼女は片手を伸ばした。

 「それにしてもなんだかお前さんひどく青い顔してないかい?ほら手も震えているじゃないか!風呂にでも入ってきたのかい、旦那さん?」

 「熱です。」ぶっきらぼうに彼は答えた。「青くもなりますよ・・・食べるものがなけりゃ。」そう言い足した彼は、辛うじて言葉を絞り出しているといった感じであった。彼の力は再び失われつつあった。だが返答はそれらしく思われたので、老婆は質草を手に取った。

 「一体何です?」と尋ねた彼女は、再度ラスコーリニコフをじろじろ見回してから手の平で質草の重さを計っていた。

 「物は・・・巻煙草入れです・・・銀の・・・見てください。」

 「でもなんか銀でもないみたいだね・・・ずいぶん巻きつけたこと。」

 彼女は編み紐をどうにかしてほどこうと窓の方、明るい方に(そこの窓はすべて鍵がかかっていた。この蒸し暑さにも関わらず。)体を向けたので、数秒間彼のことを全くほったらかしにして彼に背を向け立っていることになった。彼はコートのボタンを外し輪から斧を解放した。だがまだ引き出す素振りは見せず右手でもって服の下で保持しているだけだった。彼の腕は恐ろしいほど力が入らなかった。一瞬ごとに腕がどんどん麻痺し、木のようになっていくよう彼自身には感じられた。彼は手を放して斧を落としてしまうことを恐れた・・・突然彼の頭はぐるぐる回り出したかのようになった。

 「一体どれだけ巻きつけたんだい!」いまいましそうに老婆はそう叫ぶと彼の方を向きかけた。

 これ以上一瞬も無駄にはできなかった。彼は斧を全て取り出し両手でそれをさっと振り上げると、かろうじて意識を保ちつつ、ほとんど力を入れることなく、ほとんど無意識に頭上に斧の背を下ろした。彼の力はこの時あたかも存在していないかのようであった。だが彼が一度斧を下ろすやいなや、彼の中で力が生まれた。

 老婆はいつものように何も被っていなかった。その白髪交じりの薄い金髪は例によってこってり油が塗り付けられており、ねずみの尻尾のように細かく編んでお下げにされ、後頭部にぽこっと突き出た角製の欠けた櫛の下でまとめられていた。斧はちょうど頭頂部に命中した。彼女の低い身長がその原因であった。彼女は叫び声を上げたが、非常に弱々しく、それから突然床に沈み込んだ。もっともまだ両手を頭に持って行くことはできた。片方の手には依然として“質草”が握られていた。この時彼はありったけの力で二度三度と打った。すべて斧の背で、すべて頭頂部目がけて。血がどっと流れ出す様は、コップをひっくり返したかのようであった。体はあおむけに倒れた。彼は後退って倒れるのに任せると、すぐ彼女の顔の近くに屈んだ。すでに息はなかった。目はかっと見開かれ、まるで飛び出さんとするばかりであった。額と顔全体は痙攣のためしわが寄り歪んでいた。

 彼は斧を床の上、死体の脇に置くと、すぐそのポケットの中に手を突っ込んだ。流血で汚れないよう注意しつつ。――それはまさにあの右側のポケット、彼女がこの前そこから鍵を取り出したあのポケットだ。彼の頭ははっきりしていて意識の混濁やめまいはすでになかったが、手は依然として震えていた。後に彼が思い出したところによれば、むしろ非常に注意深く慎重で常に汚れないよう気を配っていた、ということである・・・。彼がさっと取り出した鍵は、あの時と同じようにみな一つにまとめられ一本の鋼鉄の輪に通されていた。すぐ彼はそれを持って寝室に飛んでいった。そこは非常に小さい部屋で巨大な聖像入れが置かれていた。反対側の壁際に置かれていたのは大きなベッドで、大変きちんと整えられており、端切れを縫い合わせて作った絹製の綿入り掛け布団が載せてあった。三つ目の壁際には箪笥が置かれていた。奇妙なことに彼が鍵を箪笥にあてがいそのガチャガチャいう音が耳に入るや否や、まるで彼の全身を痙攣が走り抜けたかのようになった。彼は突然またすべてを放り出して逃げ出したくなった。だがそれはほんの一瞬であった。逃げるには遅すぎる。彼は自分を嘲笑いさえした。するとまた別の不安な考えが突然浮かんだ。きっと老婆はまだ生きていて再び目を覚ますかもしれないと突如思われたのだ。鍵、それに箪笥を打ち捨て死体の方に駆け戻ると、斧を掴んで再び老婆の上に振り上げた。だが下ろしはしなかった。彼女が死んでいることに疑問の余地はない。屈んでもう一度より近くでちゃんと見ると、頭蓋骨が砕け僅かに横へ曲がっていることまではっきり見て取れた。指で触って確かめようとしたがさっと手を引っ込めた。そんなことをせずとも明らかだ。そうこうしている間に流血はすでに立派な血だまりになっていた。突然彼は彼女の首に細紐が掛かっていることに気付き、それを引っ張った。だが細紐は丈夫で取れず、おまけに血だらけになってしまった。彼はそのまま懐から引っ張り出そうとしたが、何かが邪魔をして引っかかった。彼は辛抱できず再び斧を振り上げようとした。すぐに細紐を、死体もろとも上からぶった切るためだ。だがその勇気はなかった。そこで面倒ながら手と斧をすっかり汚し、2分の格闘の末に細紐を切り離した。斧が死体に触れないようにしつつ。それから取り外した。彼の見込みは誤っていなかった。――財布だ。細紐には二つの十字架、糸杉のと青銅の、その他にエナメルの聖像が付いていた。そこにそれらと一緒にぶら下がっていたのは小さなセーム皮の脂で汚れた財布で、鋼鉄の縁と小さい輪が付いていた。財布はびっしり詰まっていた。ラスコーリニコフはそれをよく見もせずポケットに突っ込み十字架を老婆の胸の上に放り投げると、今度は斧も携え寝室に駆け戻った。

 彼は大急ぎで戻り鍵を引っ掴むとまたそれと格闘し出した。だがどれもどうもうまく行かない。最後まで錠の中に入り切らないのだ。彼の手の震えがひどいというより、彼が間違ったことをし続けていた。例を挙げると、この鍵はそうじゃない、合わないと分かっていても、突っ込み続けていたのだ。すると突然彼は思い出し、悟った。この大きな鍵、ギザギザのひげ付きは、そこでいくつかの別の小さな鍵とぶらぶら揺れているそれは、箪笥のものでは決してなく(この前彼の頭に浮かんだように)、ある長持ちのであるのに相違ない、そしてまさにその長持ちの中に多分全て隠されている、と。彼は箪笥を打ち捨てすぐベッドの下に潜り込んだ。長持ちは一般に老婆のところではベッドの下にあることを知っていたからだ。果たしてその通りだった。あったのはかなり大きい長持ちで1アルシン(約71㎝)よりやや大きく、膨らんだ蓋を持ち、赤いモロッコ皮が張られており、鋼鉄の小さな釘がたくさん打ち込まれていた。ギザギザの鍵はぴたりと当てはまり解錠できた。上から白いシーツの下にうさぎのコート、赤い絹に包まれている、その下に絹のワンピース、次いでショール、さらにその奥にはぼろしかないようであった。何よりもまず彼は血で汚れた自分の手を赤い絹で拭い取ろうとした。“赤、ふむでも赤なら血はより一層目立たない”――そう判断が下されようとした時、突然彼は我に返った。“なんてことだ!俺はおかしくなってきてるんじゃないか?”――驚愕しつつ彼は思った。

 だが彼がこのぼろを少し動かした途端、突如毛皮のコートの下から金の時計が滑り落ちた。彼は直ちに何もかもひっくり返し始めた。はたしてぼろの間に紛れていたのは金でできた物――おそらくすべて質草なのであろう、請け出されることになるものとそうでないもの――ブレスレット、鎖、イヤリング、飾りピン等々。ケースに入っているものもあれば、裸で新聞に包まれているものもあった。とは言っても几帳面かつ丁重に、二重にした新聞紙に包まれ、しかも周りを紐で縛られてではあるが。少しもためらうことなく彼はそれらをズボンとコートのポケットに詰め込み始めた。包みやケースを吟味して開けることもしなかった。だが彼に多くの物を取る余裕はなかった・・・。

 突然聞こえてきたのだ。部屋、老婆がいる部屋で歩いている音が。彼は動きを止め静かにした。まるで死人のように。だがずっと物音一つしない、ということは幻聴だったのだ。突然明瞭にかすかな叫び声が聞こえた。あるいは誰かが小さな声で断続的に呻いた後沈黙したかのようであった。その後再び死人のような静けさが約1分か2分。彼は長持ちの脇にしゃがんだまま息を潜め待った。そして突然さっと立ち上がり斧を掴んで寝室を飛び出した。

 部屋の真ん中に立っていたのはリザヴェータであった。大きな包みを両腕で抱え呆然として殺された姉の方を見ており、真っ青で叫ぶ力もないといった体であった。飛び出て来た彼に気付くと彼女は木の葉のように小刻みに震え出し、顔中に痙攣が走った。片手を少し上げ口を開きかけたが、それでもやはり叫び声は上げず、ゆっくり後ずさりで彼から離れ隅の方へ移動し始めた。じっと彼の方を凝視し、だが依然として叫び声は上げず、まるで叫ぶには空気が足りないかのようであった。彼が斧を手にして襲い掛かると、彼女の唇は大変憐れそうに歪んだ。ちょうど極幼い子供が何かを怖がり出す時、じっと彼らを恐怖させている対象の方を見つめ、泣き叫ばんとする時のそれのように。さらにこの不幸なリザヴェータは純朴で、これほどまでに打ちのめされ、脅されたことはなかったので、自分の顔を守るために腕を上げることさえしなかった。それがこの瞬間においては何よりも欠くことのできない自然な動作であったにも関わらず。なぜなら斧は真っ直ぐ彼女の顔の上に振り上げられたのだから。彼女はわずかに自分の自由になる左手を上げただけで、顔までは到底届かず、それからゆっくりとその手を彼の方、前方に伸ばした。あたかも彼を押しのけるようにして。斧はまともに頭蓋に当たった。刃の方で。そして一気に額の上の部分を全てぶち抜き、ほぼ頭頂部にまで達した。彼女は仕舞に音を立てて倒れた。ラスコーリニコフは完全に度を失いかけたが、彼女の包みをひったくると、再びそれを打ち捨て玄関に駆け出した。