「罪と罰」42(1−7)

 彼はどんどんどんどん恐怖に囚われていった。特にこの二回目の全く予期せぬ殺害の後はそうだった。彼はなるべく早くここから逃げ出したかった。もしもこの瞬間に彼がより正しく状況を捉え判断できる状態にあったなら、もしも自分の置かれた状況のあらゆる困難さ、あらゆる絶望、あらゆる醜悪さ、あらゆるくだらなさを考え合わせ、ここを脱して家に辿り着くために克服しなければならない障害、ことによると犯さねばならぬ悪事もまだどれほど彼に残されているか、この時理解できさえしたなら、大いにあり得たであろう。彼がすべてを放り出してすぐ自首したということは。それも自分自身に対する配慮などではなく、ただ自分のなしたことに対する恐怖と嫌気のために。嫌気は殊に込み上げてきて、彼の中で一分ごとに強まっていった。どうあってもこの時彼は長持ちの方に、いや部屋の方にさえ足が向くはずはなかった。

 だがある放心状態に、瞑想とさえ言っていいような状態に徐々に彼は陥っていった。つまり時々彼はまるで我を忘れたような状態に、あるいはもっと適切に言うならば、肝心なことは忘れ細かいことに執着するような状態に陥った。にもかかわらず台所の方に目を遣り長椅子の上のバケツに半分まで水が入っているのに気付くと、彼は自分の手と斧をきれいに洗い流すことを思いついた。彼の手は血まみれでべとべとしていたのだ。彼は斧を刃の方から真っ直ぐ水に漬けると、小窓のところに置かれている割れた小皿に載った石鹸の欠片を掴み、バケツの中で手をごしごしやり始めた。手を洗い流すと彼は斧も取り出してその鉄の部分をきれいに洗い、それから長いこと、3分程かけて木の部分を洗い流した。そこは血だらけだったので石鹸まで使ってやった。それから全ての汚れを洗濯物で拭い取ると、因みに手近にあったそれは食堂を横断して展張されたロープの上に乾燥させてあった、その後長いこと窓際で斧を入念に観察していた。痕跡は残っていない。ただ柄がまだ湿っているだけだ。彼は十分注意を払って斧をコートの内側の輪に通した。その後薄暗い台所の明かりが許す範囲でコート、ズボン、ブーツをじっくり見回した。外面はぱっと見おかしなところは何もない。ただブーツに斑点があるくらいなものだ。彼はぼろ布を水に少し浸しブーツをこすった。しかし彼には分かっていた。自分がちゃんと吟味できていないということを、もしかしたら自分は認識できていないけれど、何か目立つものがあるんじゃないかということを。彼は物思いにふけって部屋の真ん中に立っていた。苦しいどんよりとした考えが彼の中で湧き上がってきた。――その考えとは、自分は狂ったことをしている、今この瞬間判断する力も自分を守る力もない、もしかしたらなさなければならないことは、自分が今していることでは全然ないかもしれない・・・“なんてことだ!逃げなければ、今すぐ!”そうつぶやくと彼は玄関に飛んで行った。だがここで彼を待ち受けていたのは途轍もない恐怖、もちろん彼が今だかつて経験したことのないような恐怖だった。

 彼は立ちどまって見ていたのだが自分の目が信じられなかった。ドアが、外に通じるドア、玄関から階段へと続いている、まさに彼がさっきベルを鳴らして入ったそのドアが開いたままになっているのだ。しかも丸丸手のひら一つ分開いているのだ。鍵もかんぬきも掛けないままずっと、この間ずっと!老婆は彼が入った後鍵をかけなかったのだ。ひょっとすると用心のためだったのかもしれない。だが何ということだろう!彼はその後リザヴェータを確かに見たではないか!一体どうして、どうして彼は思い至らなかったのか。彼女はどこからか間違いなく入ってきたはずではないか!まさか壁を通り抜けてなんてことはあるまい。

 彼はドアに飛び付くととかんぬきをかけた。

 “そんなことはいい、またどうでもいいことを!行かなくては、行かなくては・・・”

 彼はかんぬきを外してドアを開けると、階段の様子に耳を澄まし始めた。

 長い事彼は耳を傾けていた。どこか遠く、下の方、恐らく門の下辺りだろうか、大きな甲高い声で誰か二人が言い争い、罵り合っていた。“何を連中は?・・”彼は辛抱強く待った。とうとう一時にすべてが静まり返った。あたかもプツンと切り放されたかのようであった。分かれて立ち去ったのだ。彼はもう外に出たかった。だが突然一階層下でやかましい音を立ててドアが階段に向かって開け放たれた。そして誰かが階段を下り始めた。何かのメロディーを口ずさんでいた。“連中ときたらどいつもこいつもなんでこんなにうるさいんだろう!”そんな考えが彼の脳裏をよぎった。彼は再びドアを後ろ手で少し閉じ、待った。ようやく何もかもが静かになった。人っ子一人居ない。彼がさあ階段に一歩を踏み出そうとした時、突然再び誰かの新たな足音が聞こえてきた。

 この耳に届いた足音はずっと遠く、まだ階段のほんの始まりの部分でしていたものだった。だが彼は非常によくはっきりと覚えていた。まさにその最初の音がした時から、本当にその時からなぜかそれは間違いなくここに、4階に、老婆の元に来るように思われた、ということを。なぜか?その音が非常に独特で意味ありげだったからだろうか?歩みは重々しく、一定のリズムで、急ぐところはなかった。ほらもう彼は1階を過ぎた、ほらさらに上がってきた。どんどん音が大きくなっていく!聞こえてきたのは重苦しい来訪者のぜーぜーいう音だ。ほらもう3階にも足をかけ始めた・・・ここに来る!すると突然彼は、自分がまるで骨のように固くなってしまったように思われた。それはあたかも夢の中でのことのようで、追われ、間近に迫り、殺されようとしているのに、自分自身はあたかもその場に根を張ってしまったかのようになり、少しも手を動かすことができない。