「罪と罰」88(2-7)

 「なんてこと!あの人の胸がすっかりつぶれちゃってる!血が、血が!」絶望して彼女は言った。「上着を全部脱がさないと!ちょっと回って、セミョーン・ザハローヴィチ、もしできるなら。」彼女は彼に大声で言った。

 

 マルメラードフは彼女を認識した。

 

 「司祭を!」かすれ声で彼は言った。

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナはその場を離れて窓際へ行くと、窓枠に額を押し付けてもたれ掛かり、絶望の叫び声を上げた。

 

 「くそみたいな人生だよ!」

 

 「司祭を!」束の間の沈黙があった後、死にかかっている者が再び言った。

 

 「どこへでも行けってんだよ!」カテリーナ・イヴァーノヴナは彼を怒鳴りつけた。彼はその一喝を受けて黙り込んだ。

 

 おずおずとした物悲しい目つきをして彼は彼女を目で探していた。彼女は再び彼の元に戻り枕頭に立った。彼はいくらか落ち着きを取り戻した。だがそれも長くは続かなかった。間もなく彼の目は幼いリードチカ(彼のお気に入り)の上に止まった。隅で発作を起こしているかのようにぶるぶる震え、点になった目で子供らしく一心に彼の方を見ていた彼女の上に。

 

 「あ・・・あ・・・」彼は落ち着きなく彼女の方を指し示していた。彼は何か言いたかった。

 

 「今度は何?」カテリーナ・イヴァーノヴナが大声で言った。

 

 「はだしだよ!はだし!」ぼけてしまったような目付きで娘の素足を指し示しながら彼はつぶやいた。

 

 「黙りなさい!」カテリーナ・イヴァーノヴナが怒声を浴びせた。「なんではだしなのかよく知ってるでしょうに!」

 

 「有り難い、医者です!」歓喜してラスコーリニコフが大声で告げた。

 

 やってきた医者は几帳面そうなおじいさんのドイツ人で、いぶかし気に辺りを見回しながら入ってきた。患者の元へ行くと脈を取り、慎重に頭を触診した。それからカテリーナ・イヴァーノヴナの助けを借りて、血で濡れたシャツのボタンを全て外すと患者の胸をはだけさせた。胸全体がめちゃめちゃで、踏みつぶされてひどく損なわれていた。右側の肋骨の何本かは完全に折れていた。左側の、ちょうど心臓の上に、不吉な、大きい黄みがかった黒い斑が出ていた。ひづめによる残酷な一撃の痕だ。医者は顔をしかめた。警官は、轢かれた人は車輪に服がはさまって、回転させられながら、舗装道路上を30歩ばかり引きずられた、と彼に話した。

 

 「意識を取り戻したのが不思議ですな。」医者はラスコーリニコフにそっと囁いた。

 

 「どうでしょうか?」とラスコーリニコフが尋ねた。

 

 「間もなくお亡くなりになるでしょう。」

 

 「望みは一切ないとでも?」

 

 「一縷もありません!臨終です・・・しかも頭に致命傷を負っている・・・ふむ。放血してもいいかもしれん・・・だが・・・無駄でしょうな。5分か10分後には間違いなく亡くなられるでしょう。」

 

 「それならいっそ放血してください!」

 

 「いいですが・・・しかしまあ言っておきますけど、こんなことは何の意味もありませんよ。」

 

 この時幾人かの足音が聞こえ、玄関にいた群衆が分かれて道を開けた。すると敷居に聖体を携えた司祭が現れた。白髪の小柄な老人だった。まだ通りにいるうちに警官が呼びに行っていたのだ。医者はすぐさま彼に場所を譲ると、意味ありげな視線を彼と交わした。ラスコーリニコフは医者にせめて今少し待ってくれるよう懇願した。彼は肩をすくめるとその場に留まった。

 

 全員が後ずさった。懺悔は非常に短かった。死にかかっている者が何か少しでも理解していたかは疑問である。切れ切れの不明瞭な音を発することしかできていなかった。カテリーナ・イヴァーノヴナはリーダチカを連れ、椅子から坊やを降ろすと、ペチカのある隅に行って跪き、子供たちは自分の前に跪かせた。少女は震えているばかりであった。坊やの方は、むきだしの膝の膝立ちで、ゆったりとした動作でお手てを上げ立派な十字を切ると、額を地につけるお辞儀をしていた。どうやらそれは彼に特別な満足をもたらしているようであった。カテリーナ・イヴァーノヴナは唇をかんで涙をこらえていた。彼女もまた祈りを捧げていた。時折子供のシャツを直したり、露わになりすぎになった少女の肩に三角の頭巾をかけたりしつつ。それは箪笥の上から取ったのだが、その際膝立ちは崩さず、祈りは続けたままだった。そのうち内側の部屋の戸がまた野次馬によって開放された。玄関は野次馬とすべての階からの借家人で更に一層ひしめき合っていた。もっとも部屋の敷居を越えてはいなかったけれども。たった一つのろうそくの燃えさしがこの全舞台を照らし出していた。

 

 この時、姉を呼びに一走り行っていたポーレニカが、玄関の群衆の間をさっと縫って入ってきた。中に入った彼女は、駆けて乱れた呼吸をどうにか落ち着かせると、ショールを取り、母を目で捉え近付いて言った。「向かってるわ!通りで会えた!」母は彼女を屈ませて膝立ちにさせると、自分の脇に据えた。群衆をかき分け静かにおずおずと少女が入ってきた。その突然の登場は、赤貧、おんぼろの服、死と絶望が充満するこの部屋において奇異に映った。彼女もまたぼろを身にまとっていた。その装いはチープであったが、ストリートガール風に、つまりその特別な世界において成立した趣味と規則にのっとって、明らかにそれと分かる屈辱的な狙いをもって飾り立てられていた。ソーニャは入口のちょうど敷居の上で立ち止まった。だが敷居は越えず、自失したようになって眺めていた。誰の手から買い取られたか分からない、絹の、この場には似つかわしくない、極端に長い滑稽な裾をしたカラフルなワンピースのことも、ドアを完全にふさいでしまっているやたら張り広げられたスカートのことも、光沢のあるブーツのことも、夜には必要ないのに持ってきた日傘のことも、目を引く真っ赤な羽のついた滑稽な丸い麦わら帽子のことも忘れ、何一つ認識せず眺めているように思われた。この子供っぽく横っちょに被られた帽子の下から、痩せた青白いびっくりしたような小顔が覗いていた。口はぽかんと開かれ、ショックのあまり目は点になっていた。ソーニャは背の低い18歳くらいのやせ型の女だった。だがかなり美しいブロンドの女性で、見事な青色の目をしていた。彼女は寝床の方を、司祭の方をじっと見ていた。彼女もまた早足のせいで息切れがしていた。ようやくひそひそ声が、群衆の中の2,3の言葉が彼女の耳にまで届いたのだろう。彼女は目を伏せ、敷居を一歩またいで部屋の中に入った。だがまだちょうど入口のところだった。

 

 説教と聖餐式が終わった。カテリーナ・イヴァーノヴナは再び夫の寝床へ近寄った。司祭はその場を離れ、去り際に、カテリーナ・イヴァーノヴナに励ましと慰めの言葉を2,3かけようと振り向きかけた。

 

 「私はこの子たちをどこへやったらいいんです?」苛立ったように彼女は相手の発言を荒々しく遮った。子どもたちを指しつつ。

 

 「神は情け深い。神のご加護を期待してください。」司祭は説教を始めようとした。

 

 「あーっ!情け深いのに、私たちにはそうでなかった!」

 

 「それは恐れ多いことです。恐れ多いことですぞ。奥様。」司祭は頭をふりつつたしなめた。

 

 「ならこれは恐れ多いことではないんですか?」カテリーナ・イヴァーノヴナは死にゆくものを示しながら大声で言った。

 

 「おそらく、偶然にも今回のことの原因となってしまった人たちが、あなたに報いることに同意するでしょう、せめて失われた収入に関しては・・・」

 

 「私の言ってることをあなたは分かってない!」手を振るとカテリーナ・イヴァーノヴナが苛立ったようにして叫んだ。「一体何に対して報いてくれるんですか?だって彼が酔っぱらって、勝手に馬の下に入り込んだんじゃない!どんな収入が?あの人からお金なんて入って来ないわよ、苦しみしかなかった。だって彼はアル中でいつも飲んだくれてたんだから。私たちのものを掠め取って居酒屋に持ちこんで、あの子たちと私の生活費を居酒屋で使い果たしやがった!ほんと有難いことです。くたばりかけてんだから!損失が減るわ!」

 

 「今際の際に許す必要があります。それは罪ですぞ。奥様。そんな感情は大きな罪です!」

 

 カテリーナ・イヴァーノヴナは病人の傍らで慌ただしくしていた。彼に水を差し出したり、頭部の汗や血をふき取ったり、枕の位置を直したり、それらの合間に機を見て時折司祭に話しかけたりしていた。今彼女はほとんど無我夢中で突然彼に襲い掛かった。