「罪と罰」28(1−4)

 彼は大急ぎで辺りを見回し、何かを探し求めた。腰を下ろしたくなっていたのでベンチを探したのだが、その時彼はちょうどK遊歩道を歩いていた。ベンチは前方100歩程のところに見えた。彼は出来るだけ急いで歩き出した。だが途中ある小さなハプニングに遭遇し、それは数分間彼の全注意を惹きつけることとなった。

 ベンチを目に捉えつつ、彼は自分の前方20歩程のところを歩いている女性に気付いたのだが、初めはそれに何の気も留めていなかった。それまでに彼の前に現れては消えていったあらゆる物体に対してと同じように。彼は例えば自宅に歩いて帰っても自分が歩いてきた道を全く覚えていないということをすでに何度も経験していたので、そんな風に歩くことにはもう慣れていた。だが歩いている女性にあまりにも妙な、一見しただけで目につく何かがあったので、徐々に彼の注意は彼女に集中し始めた――初めはいやいやながら、あたかも忌々しげにといった具合だったのだが、後になるとますます引きつけられていった。彼は突然この女性のあまりにも妙なところが一体何なのか理解したくなった。第一に彼女、恐らく非常に若い娘が、こんな暑い日に帽子もかぶらず、傘も差さず、手袋もはめず、何か滑稽に手を振りながら歩いているという点だ。絹のような、軽い生地でできた(《布地製の》)少女服を着ていたのだが、これまた何か非常に変な具合に身に付けてられており、ボタンはろくにかかっておらず、後ろのウエストのところ、ちょうどスカートの始まる部分が破れていた。一片がすっかり取れ、揺れながらぶら下がっているのだ。小さなネッカチーフがむき出しの首に掛けられていたが、どこかゆがんで横っちょに突き出ていた。挙句の果てには少女はふらふら歩いており、それは躓きながらしかもあちこちによろめきながらであった。この出会いは仕舞いにはラスコーリニコフの全注意を奪い去った。彼はちょうどベンチのところで少女に追い付いた。だが彼女はベンチにたどり着くやそのままそこに、隅っこに崩れ落ち、ベンチの背に頭を反らして目を閉じた。おそらく極度の疲労のせいであろう。じっと彼女を見ると、彼はすぐに彼女がすっかり酔っ払っていることに気付いた。そんな現象を目の当たりにするのは不可解で奇怪なことだった。彼は自分が見誤っているのではないかと思いさえした。彼の前にある非常に幼い小顔は、16歳くらい、ひょっとするとやっと15歳かもしれなかった――小さくて金髪で愛らしかったが、顔中真っ赤でまるで腫れ上がっているようだった。少女は全くといっていいほど理性を失っているらしかった。一方の足を他方に重ね、しかもそれをかなり必要以上に人目にさらしたのである。どう見ても自分が戸外にいることをほとんど自覚していなかった。

 ラスコーリニコフは腰を下ろすというところまではいかない、かといって立ち去りたくもない、で途方に暮れて彼女の前に立っていた。この遊歩道は常にひっそりしているのだが、今、一時過ぎのこのくそ暑い盛りにあっては、ほぼ誰一人としていなかった。ところが少し離れたところ、15歩ほど離れた遊歩道の端で、一人の紳士風の男が立ち止まった。彼もまた何かしらの目的を持って少女に近づきたがっていることは、あらゆる点からして明らかであった。おそらく彼もまた遠くから彼女に気付き追い付いて来たのだろうが、ラスコーリニコフに邪魔をされたのだ。彼はラスコーリニコフに対し悪意ある視線を向け、もっとも努めてそれを悟られぬようにしてはいたが、自分の番が来るのを、いまいましいぼろ服の男が立ち去るのをじれったそうに待っていた。事態は明白だった。紳士風のこの男は、歳は30くらい、がっしりしていて、脂肪がつまっており、紅顔で、唇はバラ色、薄い口ひげを生やしていて、非常に洒落た服装をしていた。ラスコーリニコフはすさまじい怒りに駆られ、急にこの脂ぎっためかしやを何とかして侮辱してやりたくなった。ちょっとの間のつもりで少女を置き去りにし、紳士風の男の方へ歩み寄った。

 「おい、お前さん、スヴィドリガイロフ!ここになんのようです?」彼は叫んだ。拳を握りしめ、敵意のために泡が溜まった口角には笑みが浮かんでいた。

 「それはいったいどういう意味です?」厳しい調子で尋ねた紳士風の男は眉をひそめ、人を見下すような呆れ顔をしていた。

 「あっちへ行ってもらえませんか、そういう意味に決まってるだろ!」

 「よくもそんな口を、ペテン野郎が!・・」

 すると彼は皮の鞭を勢い良く振り上げた。ラスコーリニコフ素手で襲いかかった。体格のいい紳士風の男が自分のような男であれば仮に二人いたとしても負かすことができるということすら計算せずに。しかしまさにその瞬間、何者かが後ろから彼をがっちり取り押さえた。両者の間に巡査が割って入ってきたのだ。

 「よしなさい、君たち、公の場で喧嘩はやめたまえ。何の用があるんです?一体何者だ?」彼はラスコーリニコフに厳しく問いかけた。ぼろぼろの服に気付いたのだ。

 ラスコーリニコフは注意深く彼を観察した。その人物は勇ましい軍人風の顔つきをしていて、白い口ひげを蓄え、物分りの良さそうな目つきをしていた。

 「あなたにこそ用があるんです。」ラスコーリニコフはその手を取りながら叫んだ。「私は元学生で、ラスコーリニコフと言います・・・こんなことはお前さんにも調べがつくさ。」と彼は紳士風の男に話しかけた。「それはそうとちょっと向こうへ。見せたいものがあるんです・・・。」

 そして彼は巡査の手を取り、ベンチの方へ引っ張り出した。

 「ほら、見てください、完全に酔っ払ってます。ついさっき遊歩道を歩いていたんです。彼女が誰なのか、どんな身分かは分かりませんが、工場の関係者でもなさそうです。まず確実なのは、どこかで飲まされ、誑かされたってことです・・・初めて・・・通じてますか?仕舞いに外に放り出された。見てください、ワンピースがどんな具合に破られているか、見てください、その着方を。着せられたんですよ、自分で着たんじゃない。しかも着せたのは、不器用な手、男だ。明らかです。では今度はこっちを見てください。あのめかしやは、僕が今けんかをふっかけようとした相手ですが、知り合いではありません、初対面です。やはり奴も途中で彼女に気付きました。ついさっき、酔っ払って朦朧としている女に。そして奴は今何としても彼女に近づいて奪い去りたい、――彼女があんな状態ですから――どこかに連れ去りたいんですよ・・・。このことはまず間違いないと思います。どうか信じて下さい、僕の勝手な思い込みじゃないってことを。この目で見たんです。奴が彼女に目をつけ後を付けてきたのを。しかし僕という邪魔が入った。で奴は今僕が立ち去るのをじっと待っているんです。ほらあそこ、ついさっきちょっと離れました、立ってますよ、あたかも巻タバコを巻いてるようじゃないですか・・・。奴に渡さないようにするべきじゃないですか?家に送ってやるべきじゃないですか、――どうでしょう!」

 巡査は瞬時にすべてを理解し悟った。太った紳士風の男の意図は明白であり、少女は残されていた。勤務中の巡査はもっと近くでちゃんと見ようとして彼女の上に屈みこんだ。すると心からの憐れみが彼の顔に刻まれた。

 「ああ、かわいそうに!」頭を横に振りながら彼は言った。「まったくまだ子どものようじゃないか。誑かされた、まさにその通りだ。ねえ、お嬢さん。」彼は声をかけ始めた。「どこに住んでいらっしゃるんですか?」少女は疲れて生気のない目を開け、ぼんやりと尋問者たちの方を見ると片手を振った。

 「あのう」ラスコーリニコフが切り出した。「あの、(彼はポケットの中をちょっと探すと20コペイカを取り出した。たまたまあったのだ。)これ、辻馬車を拾って住所に送り届けてやって下さい。住所さえ分かるといいんですけどね!」

 「お嬢さん、ねえ、お嬢さん。」金を受け取ると、巡査は再び尋ね出した。「今辻馬車を拾ってきて、私があなたをちゃんと送ってあげますよ。どこへ遣ったらいいですか?え?どこに部屋を借りていらっしゃるんですか?」

 「失せるォ!・・うっとうしい!・・」とつぶやくと、少女はまた片手を振った。

 「ああ、ああひどいもんだ!ああ、本当に恥ずかしいことです、お嬢さん、こんな恥ずかしいことはありませんよ!」再び頭を振り出したその胸中では、たしなめと哀れみと怒りが渦を巻いていた。「まったくこりゃ簡単にはいきませんぞ!」とラスコーリニコフに話しかけたその時、彼は何気なくもう一度足の先から頭のてっぺんまでその男を見た。ラスコーリニコフもまた不可解な男として彼の目に写ったことは間違いない。こんなぼろを身に付けていて自分で金を出すのだから!

 「あなたはここから離れたところで彼女を発見したんですか。」と彼はラスコーリニコフに尋ねた。

 「説明します。僕の前を歩いていたんです、ふらふらしながら、ちょうどこの遊歩道でした。ベンチまで辿り着くやそのまま崩れ落ちてしまったんです。」

 「ああ、なんてみっともないことが今の世間じゃ起きてしまうんだろ、まったく!愚の骨頂ですな、しかも酔っ払っているとは!誑かされた、まさにそのとおりですよ。ほらそこ、服も破られている・・・ああ、近頃は本当に風紀が乱れてしまった!・・それにしても仮に貴族の出身であるとすれば、零落した某ということになるのだろうが・・・。今はこうしたケースが多くなった。見た目からすると、上流階級のお嬢さんのようだが。」そして彼は再び彼女の上に屈み込んだ。

 彼にも同じような娘がいるのかもしれない――《まるで上流階級のお嬢さんのような》、行儀良く躾けられた者に特有の癖があり、オシャレごっこに走る娘が・・・

 「肝心なのは」ラスコーリニコフはやきもきして言った。「ほらあの下種に渡してはならないってことです!そうですよ、奴はまた彼女を嬲りものにしますよ!透けて見えますよ、奴の望みなんか。ほらあの下種、まだ居る!」

 ラスコーリニコフは大声で言い、腕で彼をまともに指し示した。男はそれを耳にすると再び怒り狂いそうになったが、思い直し蔑みの視線をくれるだけに止めた。その後ゆっくりとさらに10歩ばかり離れ、また立ち止まった。

 「彼の手に渡さないようにすること、それは可能です。」下士官は思案顔で答えた。「どこに送ってやればいいか言ってくれればいいんですが、でないと・・・お嬢さん、ねえ、お嬢さん!」彼は再び屈み込んだ。

 その少女が突然目をぱっちりあけ注意深い視線を向けた。まるでそれ相応のことを理解したかのようであった。そしてベンチから立ち上がるとやってきた道を反対に歩き出した。

 「ちぇっ、恥知らずども、うざいんだよ!」彼女はそう言い放つと再び手を振った。すたすたと歩き出したが先程と同じようにひどくふらつきながらであった。めかしやはその後を追いだした。反対側の並木道からであったが、彼女から目を離すことはなかった。

 「心配なさらないで下さい、渡しはしません。」ひげの巡査はきっぱり言うと彼らの後について歩き出した。

 「ふー、近頃の風紀の乱れときたら!」声に出して繰り返されたその言葉はため息交じりであった。

 その瞬間あたかも蜂か何かがラスコーリニコフを刺したかのようであった。一瞬にして彼はまるで別人になってしまったかのようであった。「聞いてください、ねえ!」彼はひげの巡査の後ろから叫んだ。

 巡査が振り向いた。

 「放っておけばいいんですよ。なんだっていうんです。やめましょうよ。勝手に気晴らしでもするがいいさ。(めかしやを指し示した。)あなたに何の関係があるんです?」

 巡査はきょとんとしてじっと見つめていた。ラスコーリニコフは笑い出した。

 「やれやれ。」手を振ると、軍人風の男は言った。そしてめかしやと娘の後を追って歩き出した。おそらくラスコーリニコフのことを精神異常者か、あるいはもっと悪いものと考えたのだろう。