島崎藤村 「破戒」1

 正宗白鳥が終始変わらぬ敬意を寄せていた島崎藤村。大学生の頃「新生」を読みかけたが最後まで読めなかった。今回再挑戦するつもりで練馬区の図書館に出かけたのだが、島崎藤村の文庫本が書架に置いてない。島崎藤村のようなビッグネームなら文庫本でもいくつか置いてあるだろうと思ったのだが・・・。漱石はえらい違いである。仕方がないので集英社の日本文学全集を手に取ったが「新生」は入っていない。その代わりに「破戒」が目に付いたのでそれを読むことにした。「破戒」は「罪と罰」から着想を得て書いた小説だとどこかで聞いていたので以前から関心はあった。

 一読してみるとなるほど、確かに「罪と罰」に似ている。小説の筋にしても、主人公を取り巻く登場人物達にしても「罪と罰」を連想させるものが多い。特に登場人物においては、丑松はラスコーリニコフ、敬之進はマルメラードフ、お志保はソーニャ、銀之助はラズミーヒンという具合に特定の人物と重なってくる。その中でも僕が特に興味を持ったのは、飲んだくれの敬之進とマルメラードフの類似だ。

 敬之進は言う「我輩も、始の内は苦痛を忘れるために飲んだのさ。今ではそうじゃない、かえって苦痛を感ずるために飲む。ははははは。と言うとおかしく聞えるかもしれないが、一晩でも酒の気がなかろうものなら、寂しくて、寂しくて、身体はもうがたがた震えて来る。寝ても寝られない。そうなるとほとんど精神は無感覚だ。察してくれたまえ――飲んで苦しく思う時が、一番我輩に取っては活きてるような心地がするからねえ。」

 この敬之進の言葉を読んで、僕は次に引用するマルメラードフの言葉を連想した。「何のために飲むか、それはこの酒の中に同情と感情を探し求めているからなんです。慰みではなく合一された悲しみを探し求めているんです・・・飲みますよ、と申しますのは殊更苦しみたいからなんです!」(Для того и пью, что в питии сём сострадания и чувства ищу. Не веселья, а единой скорби ищу...Пью, ибо сугубо страдать хочу!)

 僕はこのブログで今年から「罪と罰」の翻訳をしているのだが、今ちょうどここに引用したマルメラードフの長広舌を訳しているところでなかなか苦戦している。ここに引用した拙い翻訳も意味がよく分からない。しかしこの敬之進の言葉と地の文「哀憐と同情とは眼に見ない事実を深い「生」の絵のように活してみせる。」に出会って、マルメラードフの言わんとすることはこんなふうに解釈できるのではないかと思った。

 1酒を飲む 2家族に済まないと思う 3家族に同情を感じる 4家族の悲惨な境遇が生き生きと想像される 5それは苦しいことではあるが生きているという実感(生の充足)を得られる(単に心が痛むのではなく、そこに生の充足という喜びが含まれているので合一された悲しみとなる。)

 どんなもんでしょうか。