「罪と罰」38(1−6)

 だがそれは今のところどうでもいいことであり、彼はそのことについて考えようともしなかったし、またそんな時間もなかった。彼が考えていたのは一番大事なことであって、些細なことについては自分自身で全てのことに納得がいく時まで先延ばしにしていた。だが一番大事なことは到底実現不可能に思われた。そのように少なくとも彼自身には思われていた。例えば彼はどうしても想像することができなかった。いつの日か彼が考えることを止め、立ち上がり、そして――そこに向かってただ単に歩き出す、ということを・・・。この間の「試し」(つまり場所の最終的視察という意図を持った訪問)にしても彼はあくまで「試」そうとしただけであって、本気とはほど遠く、いわば“さて、ひとつ出かけて行ってテストしてみますか、夢想ばかりじゃ話にならん!”という具合だったが、すぐ耐え切れなくなり唾を吐いて逃げ出したのだ。自分自身に激怒しつつ。だがその一方で全ての分析は、問題の道徳的解決という意味においては、すでに片が付けられているようにも思われた。つまり彼の決疑論は彫琢され、かみそりのようになっており、最早彼自身己の内に理性的な反論を見出すことはできなかった。だがいよいよとなると彼は全く自分自身を信じておらず、執拗かつ盲従的に様々な方面からの反論を手さぐりで探していた。まるでそれは誰かが彼を強制してそちらに引っ張っていくかのようであった。あの最後の日、あんな思いがけず訪れすべてを一時に決定してしまったその日が彼に及ぼした影響はほぼ完全に機械的なもので、それはまるで誰かが彼の手を取り、抵抗などお構いなしに、盲目的に、異常な力によって、問答無用で引っ張り出したようなものだった。ちょうどそれは服の一片が機械の歯車の上にひっかかり、その中に引きずり込まれ出したような具合であった。

 最初――と言ってももう大分前だが――彼が関心を持っていた一つの疑問というのは、なぜあんなにも簡単にほぼ全ての犯罪は露見し、あんなにもあからさまにほぼ全ての犯罪者の痕跡は表に出てくるのか、というものだった。彼は様々な興味深い結論に次第に辿り着いたのだが、最も重要な要因は犯罪を隠すことの物理的不可能性によりも犯罪者そのものの中にある、と考えた。つまり犯罪者自身は、しかもほぼあらゆる犯罪者は、犯行の瞬間において意志と判断力のある種低下した状態に置かれ、それどころかそれらは子供じみた度外れな軽率さに取って代わられてしまうのだが、それもよりによって当の瞬間、最も判断力と慎重さが不可欠な時になのだ。彼の確信するところからすれば、この判断力の翳りと意志の低下は人間をあたかも病気のように支配し、徐々に進行し、罪を犯す直前に最高潮に達し、当の犯行の瞬間においては同じ状態で継続し、さらにその後いくらか続くのであるが、これには個人差があり、その後はあらゆる病気と同じ経過を辿る、ということになる。疑問は、病気がまさにその犯罪を引き起こすのか、あるいはまさにその犯罪が、どうかしてそれ自身の独特な性質により、病気に類似した何かしらを常に伴うものなのか、ということであった。――彼はまだ自分にこれを解決できる力があるとは感じていなかった。

 そのような結論に辿り着くと、彼個人に関しては、彼の事業においては、このような病的な激変はあり得ぬ、判断力と意志は彼の元に留まり、奪うことのできぬものだ、計画を実行に移すいかなる時においても、それは偏に彼によって企てられた事は――“犯罪ではない”からだ、そう彼は断定してしまった・・・。我々は彼が最終的な決定に至ったプロセスの全てを省略している。それでなくても先回りしすぎているというのに・・・。事の現実的な、純粋に物質的困難は大体において彼の頭の中では完全に二義的な役割しか担っていないということだけは付け加えておこう。“それらに対し全き意志と全き判断力が保たれてさえいれば、それらはそのうち全て克服されることになるだろう、極微細な点まで事の全詳細を認識することになって・・・”だが事はまだ始まっていなかった。己の最終的決定を彼は全く信じないままでいた。そして鐘が鳴ると、すべては全く思い描いていたようにではなく、何か不意に、ほぼ予期さえせぬ姿で明らかとなった。

 一つの極取るに足らない状況が彼を窮地に立たせたのだが、それはまだ彼が階段を下り終える前であった。女家主の台所のところまで来るといつものようにドアは開け放たれていたので、彼は慎重に横目で見た。事前に把握するためにだ。つまりナスターシャが不在であっても女家主当人がそこにいるかどうか、仮にいないとしても彼女の部屋に続くドアにはちゃんと鍵がかかっているかどうかを。彼女もまたそこからどうかしてのぞきこまないとも限らないではないか、彼が斧を取りに入った時に。さて彼の驚きは一体どれほどであっただろう。彼が突然、ナスターシャが今回家にいたばかりでなく、自分の居場所である台所にいて、しかも仕事をしているのを認めた時は。籠から洗濯物を取り出してあちこちのロープにかけているではないか!彼を認めると彼女はかけるのを止め、彼の方に向き直りずっと彼の方を見ていた。それは彼が通り過ぎるまで続いた。彼は視線を逸らし、通り過ぎた。あたかも何にも気付いていないかのようにして。だが万事休すだ。斧がない!彼は無残に打ちひしがれた。
 “なんだって俺は、――彼は門に向って降りながら考えた。なんだって俺は間違いなくあいつはこの時間家にいない、なんて思い込んだんだ?なぜだ、なぜだ、なぜ俺はそんな確実にそうだと決めてしまったんだ?”彼は意気消沈し、どうかしてプライドさえ打ち砕かれた。彼は自分を毒々しくあざ笑ってやりたい気がした・・・。ぼんやりした野獣のような悪意が彼の中で荒ぶり出した。