「罪と罰」39(1−6)

 彼は門の下で立ち止まって考え込んだ。往来に出て、このまま体裁のために散歩するのは不愉快だ、部屋に戻るのは――もっと不愉快だ。“もうこんなチャンスは二度とないぞ!”――そうつぶやいた彼は漫然と門の下で屋敷番の暗い小部屋に正対して立っていたのだが、そこのドアもやはり開けっ放しになっていた。突然彼はびくっとなった。彼の目の前にあった屋敷番の小部屋の中、長椅子の下の右の方で何かが光り彼の目に留まった・・・。彼は辺りを見回した――誰もいない。忍び足で屋敷番の部屋に近づき、小段2段を降りると、弱々しい声で屋敷番を呼んだ。“やっぱりそうだ、いない!どこか近くに、と言っても中庭か、ドアが開けっ放しになっているからな”。彼は斧に向かってまっしぐらに駆け出すと(それは斧であった)、長椅子の下からそれを引っ張り出した。ちなみにそれは2本の薪の間に置いてあった。その場で外に出ないでそれを輪に固定し、両手をポケットに突っ込んで屋敷番の部屋から外に出た。誰も気付いていない!“理性が駄目なら悪魔ってわけだ!”――そう思った彼の口元には奇妙な笑みが浮かんでいた。この出来事は彼を著しく元気づけた。

 途中の彼の足取りはゆっくりかつ真面目で、急ぐことはなかった。いかなる疑いも受けないようにするためである。彼はほとんど通行人の方を見なかった、というより顔を一切見ないようまたできるだけ目立たないよう努めた。この時帽子のことが思い出された。“なんてことだ!金なら一昨日にはあったのに、つば付きの帽子に替えられなかったとは!”呪詛が思わず彼の胸から飛び出した。

 たまたま片方の目が小さな店の中を視界に捉えると、彼はそこにあった壁時計でもう7時を10分過ぎているのに気付いた。急がねばならないし、回り道もしなければならない。迂回して別の方から建物に近付く必要がある・・・。

 以前こうした諸々のこと一切が想像された時、彼は自分が不安でたまらなくなるだろうと思ったこともあった。だが彼は今それほど恐れていなかった。いやむしろ全く恐れていなかった。この瞬間彼の頭を満たしていたのはある直接関係のない考えですらあったのだ。もっともそれらはみな長くは続かなかったのではあるが。ユスポフ庭園の近くを通り過ぎながら、彼は高い噴水を建設することについて、またそれがどのようにしたら広場中の空気を素晴らしく爽快なものにするか、といった考えに危うく夢中になるところでさえあった。徐々に彼は、もし夏の庭園をマルソフ広場全体にまで拡げさらにミハイロフスキー宮中庭園まで一緒にしたら、素晴らしいまた町にとって何よりも有益な事になるだろうと確信するようになった。その時急に彼の興味を引いたのは、一体なぜすべての大都市では、人間は専ら必要に迫られてという訳でもないのにどうかして特に好んでああした地域で生活しそこに居着くことになるのか、つまり庭園も噴水もなくあるのは不潔と騒音それにあらゆる不快なことという地域で、という疑問であった。この時自分がセンナヤ広場を散歩したことが思い出され、彼は一瞬我に返った。“なんて馬鹿げたことを――と彼は思った。――だめだ、全く何も考えない方がましだ!”

 “こういうものなんだ、きっと、連中、刑場に連れていかれる連中はあらゆるものに観念で愛着を覚えるのさ、道すがら出会うすべてのものに”――この観念が彼の脳裏を一瞬過ったが、それは稲妻のようにほんの一瞬であった。彼は自分でこの観念をなるべく早く消し去った・・・。だがほらもうそこだ、ほら建物が、ほら門が。どこかで突然時計の鐘が一回鳴った。“どういうことだ、まさか7時半ってことはないよな?そんな馬鹿な、きっと時計が進んでいるに違いない!”

 彼にとって幸いなことに門のところではまた問題なくいった。いや問題ないどころではない。まるで意図したかのように、ちょうどその瞬間彼の前を干草を積んだ巨大な荷馬車が門の中に入って行ったのだが、それが完全に彼の存在を始終隠すことになった。彼が門を通過している間ずっとなのだ。そして荷馬車が門を抜け中庭に入るやいなや、彼はさっと右側に抜け出たのであった。あちら側、つまり荷馬車の反対側では数人が大声を上げ言い争いをしているのが聞こえていたが、彼の存在に気付く者はなかったし偶然彼と相向かいになる者もなかった。この巨大な四角形の中庭に面した多くの窓はその瞬間開いていたのだが、彼は頭を上げなかった――力がなかったのだ。老婆の所に続く階段は目の前に、門から右に入ったすぐのところにあった。彼はもう階段の前まで来ていたのである・・・。