「アンギアリの戦い−レオナルドとマキャヴェリ」

 花田清輝のエッセイ「アンギアリの戦い−レオナルドとマキャヴェリ」を読む。このエッセイは『復興期の精神』の他のエッセイに比べ特に短い方だが、これを十分理解するためには骨太な西洋哲学史の知識が必要だと思う。(それゆえ僕は十分理解できているとはいえない。)とはいえ骨太な西洋哲学史の知識を得ることは容易なことではないので、せめてこのエッセイのポイントだけでも掴みたいと思い、僕は科学と形而上学との違いに焦点を絞ることにした。以下では自分なりに理解した目的、対象、方法における両者の違いを述べることにする。



 科学の目的は、自然を理解することであり、その理解に基づいて自然をコントロールすることである。科学には物理学や化学に代表される自然科学もあれば、政治学や経済学などからなる社会科学、文学や史学などからなる人文科学も存在する。それらがすべて自然を対象としていると言えるのだろうかという疑問も当然起こりうるが、社会科学や人文科学において研究対象となっているのは人間の活動およびその成果であって、それは直接、間接を含め人間の感情の結果である。そして感情とは人間を内部から支配する自然の別名であるから、社会科学や人文科学もまた人間の活動およびその成果を研究することで人間を内側から支配する自然を理解し、それをコントロールできるようにすることが目的であるということもできる。これに対し形而上学の目的は、自然の意味を説明することにある。それは「どのように」という問いによるのではなく、「なぜ」という問いに端を発している。神などの超越的存在が形而上学で問題になるのは、自然の意味を説明するために自然を超えた存在が理論的に要請されるがためだ。


 科学の対象は自然であるが、それは人間の経験の対象となりうるもの、観察することができるもの、つまり現象でなければならない。したがって、人間の経験の対象にならない超越的なものは科学の対象から除外される。これに対し形而上学の対象は自然それ自体であって、個々の存在を貫く根本的な原理、つまり存在するということそれ自体がその対象である。


 科学の方法は観察と実験である。「ギリシアの科学」は自然を理解することに主眼が置かれていたため、自然をコントロールするために必要な実験という方法が育たなかった。実験により実証性を確保しようという動きは、ルネサンスにおいて近代市民社会が成立することを待たねばならない。イタリアのフィレンツェなどで近代市民社会が成立すると、学者的伝統に属する観察(自然の合理的解釈)と職人的伝統に属する実験(実証性の確保)が融合し、ここに初めて近代科学が誕生するのである。近代科学は観察と実験とを武器に、自然を拷問にかけ、その秘密を吐かせ、それを人間の生活に役立ててきた。現代人の生活の利便性は、こうした近代科学による自然の拷問の結果である。これに対し、形而上学の方法は思弁である。先に述べたように、形而上学の対象は自然をつらぬく根本原理、つまり存在するということそれ自体であるから、観察可能な自然という相対的な自然に対して有効な科学の方法とは自ずから異なる。形而上学は個別に存在するものを統一的に説明できる理論を論理的に創造する。それは思弁によらなければならない。なぜなら、形而上学において求められているものは、存在しているものの理論ではなく、存在しているものをそうしたものとして成立させている存在の成立条件に関する理論なのであって、それはもはや人間の経験の対象となる相対的なものではなく、絶対的なものだからだ。人間の感性で絶対的なものを捉えることはできない、「絶対には最初からしっぽなどありはしない」(花田清輝「黄金分割」)。絶対的なものは探求の対象ではなく、創造の対象なのだ。したがって絶対的なものの創造を試みる形而上学は、感性に制約を受ける科学的探求ではなく、感性の制約を超越できる思弁によらなければならない。



 さて科学と形而上学との違いを今まで述べてきたが、形而上学(metaphysics)とは科学のメタ理論、つまりメタ科学であるということができる。形而上学は自然の神秘を前に立ちすくまざるをえない科学を論理的に基礎づけようとする試みなのだ。したがって花田が、自然からの解放を望むのであれば合理的実践に終始するしかない、と主張するのは正しい。なぜなら形而上学は、自然を説明するために人間が創り出したなにかしらのものを論理的に基礎づけようとする試みであって、レオナルドやマキャヴェリのように自然からの解放を目指しているのではないからだ。このように全く異なる両者であるが、合理性を重んじるという点において共通している。形而上学は絶対の創造であるが、それは合理的になされる。一方科学は相対の探求であるが、それもまた数学的合理性を備えていなければならない。それゆえ両者は一見似ているが、それぞれの目指すところをはっきり見極めさえすれば似て非なるものであることは今までの議論で明らかであろう。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

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