「天体図−コペルニクス」

「地球が太陽の周囲を回転することを説明してくださって、あたしを侮蔑したおつもりでいらっしゃるの。それでもあたしは、やっぱり地球を尊敬しておりますよ。」


 これは花田清輝が「天体図−コペルニクス」の末尾において、フォントネルの著作から引用した言葉である。初めて「天体図−コペルニクス」を読んだ時、僕にはこの引用の意図がよく分からなかった。その後数回読んだが、依然としてそれをはっきり理解したという確信が持てない。しかし末尾に位置するこの引用の意図を読み解くことは、「天体図−コペルニクス」の理解において重要な意味を持つように思われるので自分なりの解釈を示すことにする。



 花田の終生の課題は「近代をこえる」こと(『復興期の精神』1959年版跋より)である。彼がなぜルネサンスに惹かれるかといえば、この時期が中世から近世への転換期であり、「近代をこえる」ヒントがあるにちがいないと考えるからだ。コペルニクスは千年以上にわたって続いた天動説、さらにはアリストテレスの哲学によって固められたキリスト教的世界観を、つまりは中世を根底からひっくり返した人物である。花田がこのような大転換を成し遂げた人物に惹きつけられぬわけがない。その関心はコペルニクスが如何にして中世と戦ったか、さらにはコペルニクスとはそもそも何者なのかという問いに姿を変える。


 コペルニクスはどのような方法によって中世をこえたのだろうか。それは、対立するものを意図的に対立したたままの状態にしておき、両者が弱ってきたところで一挙に自己の傘下に収める、という方法によってであった。対立するもののどちらか一方に加担し、一方が他方を征服するというのではなく、両者の対立状態を意図的に維持するというのがポイントである。この独自の方法は、行動の領域においてだけでなく、精神の領域においても適用され、コペルニクス的転向をもたらした。このようなユニークな方法により画期的な転向を成功させたコペルニクスとは、一体何者であろうか。


 コペルニクスヒューマニストであると同時に、すべての人間と対立(当時の人々は地球が動いているなどとは夢にも思わなかった。)しても一歩も退かない頑固な男でもあった。つまり、彼は人間的であると同時に非人間的でもあった。このように対立するものを対立させたまま調和している彼の小宇宙は「一種の平衡感覚のごときもの」によって維持されているのであるが、この「一種の平衡感覚のごときもの」に当たるのが、コペルニクスとイワンの比較において言及される「ほんとうの謙虚さ」であると僕は考える。ではここで言う「ほんとうの謙虚さ」とは何か。


「ほんとうの謙虚さは、知識の限界をきわめることによってうまれてくる。」と花田は言う。知識の限界をきわめれば、おそらく昔と全く変わらぬ姿をした「暗黒」がわれわれの前に姿を現す。この「暗黒」は、人類が積み上げてきたものすべてを無に帰し、気づいたら偏ってしまっているわれわれをニュートラルな立ち位置に戻してくれる。人間的にして、非人間的であるコペルニクスの小宇宙を、どちらか一方に偏ることなく維持することを可能にしているのは、この「暗黒」の力であるに違いない。



 さて、花田がそこから引用したフォントネルの著作というのは、1686年に出版された『世界の複数性についての対話』という本である。これは啓蒙書であり、鋭い理解力はあるが無知である公爵夫人に、天文学の知識を対話を通じてわかり易く教えるという体裁をとっている。花田の引用した部分からすると、公爵夫人は地動説を教えられたがすんなり納得できないようである。これはいったい何を意味するか。


 いくら理解力があっても学問の成果を享受しているだけでは、他人の考えをなぞっているにすぎず、それは結局、先行者によって形成されてきた現状を、そして今の自分自身を肯定することにしかならない。なぜならば無知でよしとしている人間は、自分を形成しているものに対して疑いの目を向けることがなく、自身が偏ってしまっていることを、そしてその傲慢さを反省することがないからだ。したがってこの引用には二つの意図があると考える。直接には、無知でよしとしている人間の傲慢さを明らかにすることであり、間接には、コペルニクスの闘争方法を可能にする「ほんとうの謙虚さ」は知識の限界をきわめようとしなければ生まれてこない、と主張することである。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

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