「政談−マキャヴェリ」

花田清輝のエッセイ「政談−マキャヴェリ」を読む。僕はこのエッセイを数回読んだ後、無政府主義に興味を感じ、ゴドウィンやバクーニンの著作を読んでみたいと思った。いったい僕の中でどんな回路がつながって無政府主義に至ったのか定かではないが、このエッセイには少なくとも社会そのものに対して目を向けさせる契機が含まれていると思う。なぜなら「自由」の最も強力な敵対者は社会そのものに他ならないからである。


 花田はこのエッセイの中で、マキャヴェリマキャヴェリストの違いを描き出しているが、それを一言で言うならマキャヴェリは「攻める人」であって、マキャヴェリストは「守る人」である。マキャヴェリマキャヴェリズム(権謀術数主義と訳されるが、その意味するところは目的達成のためならだまし打ちもOKというもの。)の本家本元でマキャヴェリストの親分と考えられているが、両者はだまし打ちを何のために用いるかという点において違いがある。つまり、マキャヴェリにとってだまし打ちは攻めの手段であるが、マキャヴェリストにとってはそれが守りの手段なのだ。花田は両者にそうした違いが生まれる原因を、「芸術家魂」を持っているかいないかという点に求める。では彼の言う「芸術家魂」とは一体何か。


 この「芸術家魂」を理解するためには、花田がマキャヴェリをどのような人物として考えていたかが手掛かりとなると思う。花田は言う。マキャヴェリは、「子供らしい、世のつねの利害打算や価値判断を粉砕していささかも悔いない」男であり、「心の底では、いつも・・・小刀細工を馬鹿にしており、ほんとうにしたいことをするときには、体あたりでまったく向うみずな振舞をする」そういう男として花田はマキャヴェリをみていた。つまり「芸術家魂」とは、自分のしたいことを果敢に実行しようとする心意気であり、自分の行く手を阻むものがあればなんとしてもそれを突破しようという姿勢に宿るものなのだ。言い方を変えれば「芸術家魂」とは、自分が自分自身であろうとすることに他ならない。


 では花田にとって自分が自分自身である、ということはどういうことを意味していただろうか。花田がこのエッセイを書いた時は戦争中で、自分の書きたいものを好きなように書くことができない状況だった。政府は思想統制を行い、国民を一つにまとめようとしていた。つまりは自由が制限されていた時代だった。自分が自分自身であるという感じより、自分が自身ではないという感じの方がずっとよく理解できるものだ。マルクス主義の洗礼を受けていた花田は、自分が自分自身であることの困難を強く感じていたに違いない。そんな彼にとっての自分自身とは『自明の理』や『復興期の精神』に込められた戦闘精神に他ならない。


 今僕がこれを書いている時代は、戦中の当時よりずっと自由があふれているように思える。しかし人間が社会の中で生きる以上、ルールは存在している。人は社会から多くの利益を受けているが、その対価として自由という代償を社会に対して払っているのだ。われわれは小さい時から教育され、当たり前のこととしてそうしたルールを受け入れているかもしれないが、宇宙人から見たら人間は社会の奴隷そのものかもしれない。そのルールの多さ、それを破った時の圧倒的な強制力、人間は首輪をつけられた犬とどこが違うんだろうかと首をかしげたくなるくらいだ。巧妙にして強大なわれわれの社会は人間が作ったものだ。だから人間が変えられるはずだ。社会ありきの議論は願い下げである。「政談−マキャヴェリ」は、読者の「自由」に対する感覚に応じて様々な陰影を帯びるエッセイである。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

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