「鏡のなかの言葉−レオナルド」

ここに複数の肖像がある。崇高な芸術家、反動勢力に屈服した卑屈な廷臣、逞しき知識人、「無邪気」な子供、同性愛者、数学的・機械論哲学の最初の使徒、絶対的先駆者。ここに示した複数の肖像は異なる人物について描かれたものではない。これらはすべて花田清輝が「鏡のなかの言葉−レオナルド」の中で描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの肖像だ。それにしても、たった一人の人物からよくこれだけ多様な肖像を描けたものだ。いったいどれがレオナルドの真の姿なのか、眺めているこちらは描き手が花田清輝なだけに当惑させられる。だがそれらに甲乙がないとはいえない。丁寧にこのエッセイを読み進めていけば、それらの肖像に優劣は存在しているように思える。優劣を示すために複数の肖像が必要であったという解釈も成り立つ。だがそれにしてもなぜこれだけ多くの肖像を描く必要があったのか。これだと思う一つの肖像に全力を挙げるべきではなかったのか。謎は残る。


花田清輝の終生の課題は「近代」を超えることにあった。その目的のために花田は、近代の基本的性格を形成した論理に注目した。それは「形式論理」という名で呼ばれる(この「形式論理」については、花田の最初の評論集『自明の理』で詳細に検討されている)。形式論理とは、正しく思考するための四つの基本原則(同一律矛盾律排中律・充足理由律)からなり、それらは同一律に還元されるという。同一律とは、A=Aの形式で表される自明の理の代表的なもので、思考の過程においてある概念はその内容を変えてはならないということを意味する。このA=Aという自明の理の問題点はそれを現実に適用することで見えてくる。

ある現実Aは不断に変化すると同時に、それ自身のうちに矛盾を含んでいる。例えば、緑という色を考えてみよう。自然界に「緑」は至る所に存在しているが、それらが現実に存在する「緑」である以上常に変化していることは疑いない。例えばある樹木の葉が緑から黄色さらには茶色へと変化することは多くの人に首肯されよう。つまり「緑」というAはB→C→D→Eと常に移り変わっていく。また「緑」が「緑」としてわれわれに認識されるためには、「緑ではない色」の存在が必要である。なぜなら、現実に存在する色が緑しかなければ、そもそも「色」という概念が成立しなくなってしまう。したがって、「緑」は「緑ではない色」の存在によって成立している。言い方を変えれば、「緑」は「緑ではない色」を内に含んでいる。つまり「緑」というAは、Aと非Aという両立しえない両者を両立させている、言い方を変えればAは矛盾したあり方をしている。

形式論理に無反省に従う者は、現実に存在するAが、B→C→D→Eと常に変化していること、またAがその対立物を内に含んで存在しているという点を見ない、あるいは見ても見ぬふりをする。そして捉えどころのない現実を、自分にとって都合のいいものに変えるために、固定化し、単純化するのだ。ここにおいて現実Aは、A=Aという形式で表され、神秘的なものに変容する。したがって形式論理は、現実を利用しやすいものに変えること、現実のある一点を捉えることについては優れているが、現実そのものを、つまりその変化と矛盾を捉えることができないという点において劣っている。言い換えるなら一面的であるという欠点を持っている。
 

花田はこの形式論理に対してどのように立ち向かったか。「近代」に対して「中世」を、形式論理に対して弁証法を対抗させるという発想は形式論理的なものだと言わざるを得ない。なぜなら対立する両項を固定化し、単純化しているからだ。彼は形式論理を変化と矛盾の相において把握しようとした。必然それは、形式論理が近代の基本的性格を形成するに至った歴史とそれが抱えるプラスとマイナスに焦点が向けられる。このエッセイでは、レオナルドの玩具の社会学的な解釈を通じて近代的思考の発生地点が検討され、様々なレオナルドの肖像を描き出すことでその一面性が明らかにされている。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

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