「女の論理−ダンテ」

花田清輝『復興期の精神』の巻頭エッセイ「女の論理−ダンテ」を読む。予備知識を持たないで読んだ最初の感想は、なんだかはっきりしない部分が多く、よく分からないというものだった。所々に興味を感ずる考えもあったが、全体としていったい何が言いたいのかよく分からず、特に最後の「三十歳をすぎても女のほんとうの顔を描きだすことはできない」という結語が謎であった。『復興期の精神』の他のエッセイを読んでみたが、やはりよく分からない・・・よく分からないのだが、何か人を駆り立てるような、今のままではいけない、という熱い気持ちにさせる何かがあった。二回、三回と読み、花田に関する文献なども目にすると徐々に花田の意図が見えてきた。そして、なんだかはっきりしないが人を熱い気持ちにさせる、という私が抱いた感想は、ある意味において正しいということが分かってきた。今もって『復興期の精神』を十分に理解したとは言えないが、私の感想が「ある意味において正しい」と言った意味をこれから明らかにしてみよう。


「女の論理−ダンテ」(1941年4月、雑誌『文化組織』第二巻四月号に掲載)の初出には以下のエピグラフが掲載されていた。


「それゆえ、それらの言葉は幾何学者のいう複素数というものを考えさせます。すなわち、音韻の変数と語義の変数との交わりが、展開と収斂のさまざまな問題をうみ、それらの問題を詩人は盲目滅法に解くのであります。 ―― ヴァレリー詩学講義』」


フランスでこの『詩学叙説第一講』が単行本として出版されたのは1938年だったことを考えると、このエピグラフを原文に遡って読むことができた人はそう多くはなかったに違いない。しかし読むことができた人は、このエピグラフの前文「それらの言葉(詩的言語)は、発音と、瞬間的なその心理的効果という、同時に関係し、相互に匹敵する重要さをもった二つの価値を担っているのであります。」に出会うことができただろう。この「相互に匹敵する重要さをもった二つの価値を担っている」という部分が、複素数の例えにつながっている。複素数とは、a+biで表され、実数と虚数から成りたっている。そして、両者は決して交わることがない。高校数学で習った複素数の計算を思い出してもらえればはっきりするだろう。実数と虚数は等価であり、それらは互いに独立しているのだ。


では、複素数の例えを中心とするこのエピグラフを引用した花田の意図は何か。結論から言って、このエピグラフは「女の論理−ダンテ」を、さらには『復興期の精神』全体を貫く方法を暗示しているのだ。このエッセイで著者は、「女のほんとうの顔」を軸にバルザック、ダンテ、と書き進み、自分なりの「女のほんとうの顔」を描こうと試みる。しかし、その出来ばえが陳腐だったので、「三十歳をすぎても女のほんとうの顔を描きだすことはできない」という結語で終わらせている。この表向きのストーリーは、複素数の例えにおける実数が担う役割だ。では現実の世界には存在しない虚数が担うもう一方の役割は何か。花田は『復興期の精神』の初版跋文で、この一連のエッセイの主題を「転形期にいかに生きるか」と定めている。虚数が担う役割は、この主題の展開だ。これを正確に跡付けるとは極めて困難である。しかし読者は、注意深く選ばれたいくつかの言葉がそれを形成しているのを感じるにちがいない。


この主題はあからさまに語られることはなかった。戦中に出版されたこの一連のエッセイは厳しい言論統制のために、エピグラフが暗示しているところのある工夫をこらす必要があったのだ。繰り返して読んでみれば、実部は検閲の目を欺くための煙幕の役割を果たし、虚部は煙幕の中で、抜き身の日本刀のようにぎらついているのが了解されよう。


先に私が、自分の抱いた感想は「ある意味において正しい」と言ったのは、『復興期の精神』には読者をしてよく分からなくさせる工夫がしてあり、熱い気持ちにさせる工夫がしてあるということだ。それはブランデーの製造を思い起こさせる。ブランデーはブドウ酒を蒸留することによって芳醇な香りと、高いアルコール濃度を獲得する・・・この巻頭エッセイは、その方法の規定であり、実践でもある。

復興期の精神 (講談社学術文庫)

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