「罪と罰」44(1−7)

 彼がもう3階を過ぎたという時、突然もっと下の方から大きな音が聞こえてきた――どこに隠れたらいい!どこかに隠れるなんてできやしなかった。彼は元の所へ、再び部屋の中へと駆け出そうとした。

「おい、化け物、悪魔!抑えろ!」

 叫び声とともに誰かが下の方のある部屋の中から飛び出してきた。そして駆け出すというよりまさに転げ落ちるようにして階段を下って行った。あらん限りの声で叫びながら。

「ミーチカ!ミーチカ!ミーチカ!ミーチカ!ミーチカ!くたばっちまえぇ!」

 叫び声は金切声で終わり、最後の音はもう中庭から聞こえてきた。全てが静まり返った。だがまさにその瞬間数名の者が、大きな声で頻りに話をしていた連中ががやがや音を立てて階段を上り始めた。彼らは3人か4人であった。彼は若者のよく響く声を聞き分けた。“奴らだ!”

 すっかり絶望した彼はまともに彼らに向かって行った。なるようになれ!引き止められたらすべて終わり、見逃してくれてもやはりすべて終わりだ。記憶に残ってしまう。彼らの距離は最早縮まりつつあった。彼らの間に残されていたのはたった1階層分だけ――すると突然救いの神が!彼のところから数段離れた右手に、無人の、ドアが開けっ放しになっている部屋があったのだ。それは例の2階の部屋で、そこでペンキを塗っていた労働者達は今はもう意図したかのように出払っていた。ついさっきあの叫び声を上げて走り出ていったのは彼らであるに相違ない。床はペンキが塗られたばかりで、部屋の中央にはペンキと刷毛の入った小さな桶と壺が置かれていた。一瞬のうちに彼は開いていたドアの中に滑り込み壁の後ろに身を隠した。ぎりぎりのタイミングだった。彼らはもうすぐそこの踊り場に来ていたのだ。その後彼らは上階へと向かい、すぐ近くを通過し4階に行ってしまった。大声で話し合っていた。彼は待ってやり過ごすと、そっと部屋から出て階下へ駆け出した。

 階段には誰もいない!門のところもやはりそうだった。早足で門を通り過ぎた彼は通りを左に曲がった。
 
 彼は非常によく知っていた。彼は十分よく知っていた。彼らがこの瞬間もう部屋の中いること。ついさっきは閉まっていたのにそれが開いているのを見て非常に驚いたこと。彼らがもう死体の方に目を遣っていること。そして1分と経たないうちに彼らが、ここに今しがた殺人者がいて、どこかしらに身を隠し、彼らの脇をすり抜け、逃げおおせたということに思い至り何もかも了解すること。おそらく上に向かっている間彼が無人の部屋でじっとしていたということにも思い至っていることを。だが実際のところどうあっても彼はもっと早く歩くことはできなかった。もっとも最初の角までは100歩ほどであったのだが。“どこかの門にさっと滑り込んで、見ず知らずの階段のどこかでやり過ごすというのはどうだろう?だめだ、破滅だ!じゃあどこかに斧を投げ捨てるのは?辻馬車を拾うのは?破滅だ!破滅だ!”

 ようやく小路だ。彼はそこに曲がったが、半死半生の体であった。その時点で彼はもう半分助かったようなものであり、彼はそのことを理解していた。疑われることはより少なく、しかもそこでは人々が頻繁に行き交っていたので、彼はその中に紛れてしまったのである。ちょうど砂粒の一粒のように。しかしありとあらゆるこれまでの苦しみが彼をあまりにも衰弱させていたので、彼はどうにか動けるといった有様だった。汗は滴となって流れ、首はびっしょりであった。“おい酔っ払い!”――と誰かが彼に怒鳴ったのは、彼が下水路に出た時であった。

 今や彼の頭は朦朧としていた。先に行けば行くほどそうであった。だが記憶に残ったこともあって、それは突然、下水路に出ると、人が少なくそこではより目立ってしまうがゆえに恐ろしくなり元の小路に戻りかけたこと、であった。いつ倒れてもおかしくない状態であったのにもかかわらず、彼はそれでも回り道をして全く別の方角から家に帰った。

 はっきりしない頭のまま彼は自分の住んでいる建物の門すらくぐった。そして少なく見積もっても彼がもう階段の前まで来た時、その時になってようやく斧のことを思い出した。その実非常に重要な問題が控えていたのだ。それを戻さなければならない、しかもできるだけ気付かれないように。もちろん彼はすでに考える力を失っていたので、もしかしたら、以前の場所に斧を戻すことなどせず、こっそりどこか別の中庭に捨ててしまった方が、もっとも後にではあるけれども、ずっと良策なのではないだろうか、などということを思い付くはずもなかった。

 だが万事うまくいった。庭番の部屋のドアは軽く閉じられていたが、鍵はかかっていなかった。つまりほぼ確実に庭番は在宅であった。だがすでに彼は何かを考え判断する力を失っていたので、まっすぐ庭番の部屋に近付きそこを開け放った。もし庭番が彼に“何の用ですか?”と尋ねたなら――彼はひょっとしたらもう直ちに斧を差し出したかもしれない。だが庭番は今回も不在であったので、彼は斧を元のベンチの下に置くことができた。しかも元のように薪で覆ってだ。誰とも、ただの一人とも彼はその後自分の部屋に辿り着くまで出会わなかった。女家主のドアは閉じられていた。自分の部屋に入るなり彼はソファの上に身を投げ出した。着の身着のままであった。彼は眠りに落ちることはなかったが、意識は朦朧としていた。もし誰かがこの時彼の部屋に入って来たなら、彼はそれこそすぐ飛び起きて叫び出したであろう。何かしらの考えの小片や断片が彼の頭の中でうごめいていた。だが彼は一つとして捕まえることができず、一つにも落ち着くことができなかった。そう努めさえしたのにもかかわらず・・・。