「罪と罰」47(2−1)

 階段で彼は思い出した。品々をみなあんな風に壁紙の穴の中に残してきたことを。――“それに俺がいない間に捜索ということかもしれん”――思い出すと立ち止まった。だがあまりにも深い絶望、あまりにも激しい、こう言ってよければ、破滅のシニシズムが突然彼を支配してしまったので、彼は片手を振ると先に歩き出した。

 “とにかく早く終わりにしてくれ!・・”

 外は再び耐え難い暑さになっていた。ここのところ全く雨が降っていないのだ。また埃、レンガ、しっくい、また小さな商店や居酒屋からの悪臭、またひっきりなしの酔っ払い、フィン人の行商、半分壊れた辻馬車だ。太陽のまぶしい光が目に飛び込んでくると、目を開いているのが苦痛になり、彼の頭は完全にぐるぐるし始めた――熱病に浮かされた者が晴れ渡った日中突然外に出た場合の一般的な感覚だ。

 昨日の道への分岐点まで来ると、彼は苦い不安を抱きながら向こうを、あの建物の方をちらっと見た・・・そしてすぐ目を逸らした。

 “聞かれたら、もしかすると俺はしゃべってしまうかもしれん”――そんなことを考えながら彼は役所に近付いて行った。
 
 役所は彼の住居から約250メートル離れたところにあった。それは新しい貸室、新しい建物の4階に移転してきたばかりであった。以前の貸室に彼はかつてほんのちょっと寄ったことがあったが、かなり前のことであった。門の下をくぐると彼は右手に階段があることに気付いた。そこから降りてきた男は両手で本を持っていた。“庭番だ、ということは、すなわち、ここに間違いなく役所がはいっている”そして彼は当てずっぽうに上り始めた。誰にも、どんなことも尋ねたくなかったのだ。

 “入ったら膝立ちになってみんな話そう・・・”4階に足を掛けながら彼はそんなことを考えた。

 階段はやや狭く急で、全体的に汚水で濡れていた。全4階層中の全住居の全台所がこの階段に向かって開け放たれており、その状態がほぼ一日中続くのだ。それゆえ凄まじい蒸し暑さだった。上へ下へと上ったり下ったりしているのは本を脇に抱えた庭番、警察の配達吏、そして男女様々な人々――来庁者であった。当の役所のドアもまた開け放たれていた。彼は中に入り控室で立ち止まった。そこでは農民らしき人々がずっと立ちっぱなしで待っていた。ここの蒸し暑さもまた尋常でなかった。しかも、最近部屋に塗ったばかりでまだ乾いていない腐臭のする乾油製塗料の臭いが鼻を刺激し吐き気を催すほどであった。少し待ってから、彼はもっと先に、次の部屋に進むことにした。部屋という部屋はどれもちっぽけで天上が低かった。凄まじい焦燥が彼を更に先へ先へと押しやった。誰も彼に気を留める者はなかった。二番目の部屋には座って書き物をしている書記らしき人々がいた。身なりは彼より少しましなだけで、見かけはむしろ何だか変な奴であった。彼は彼らの中の一人に話しかけた。

 「何か?」

 彼は役所からの呼出し状を見せた。

 「学生さんですか?」そう尋ねた男は、呼出し状の方にちらっと目をやっていた。

 「はい、元学生です。」

 書記は彼を見回したが、どんな好奇心も伴っていなかった。それは何だか特別髪をくしゃくしゃに乱した男で、その視線には何物にも動かされない思想が宿っていた。

 “この男からは何も知ることはできまい、なぜなら彼にとっては同じ事だからだ”――とラスコーリニコフは思った。

 「あちらへ、文書係の方へお進みください。」そう言った書記は前の方を指し示した。その先には最奥の部屋があった。

 彼が入ったその部屋(順番で言うと4番目)は狭く、人がぎゅうぎゅう詰めにされていた。――そこにいる人々は前の部屋にいる人たちよりいくらか小奇麗な服装をしていた。来庁者の中には二人の上流階級の婦人が含まれていた。一方は喪に服している粗末な服装をした婦人で、机を挟んで文書係に相対して座り、彼の指図で何か書いていた。他方は非常に恰幅のいい、赤紫色をした、しみの沢山ある人目を引く婦人で、何かこうそれはもう非常にきらびやかに着飾っていて、胸にティーカップの受け皿大のブローチを下げ、少し離れたところに立って何かしらを待っていた。ラスコーリニコフは文書係に呼出し状を突き出した。男は一瞬それに目をやると“お待ちください”と言って、喪に服している婦人の対応を続けた。

 彼は気が楽になって一息ついた。“間違いない、あの事じゃない!”徐々に彼は元気付いてきた。彼は本気で自らを戒め、元気を出し頭を切り替えようと努めた。