「罪と罰」59(2−3)

しかし彼は病んでいる間ずっと完全に意識を失っていたというよりは、熱に浮かされて半分意識がない状態であった。後に彼は多くのことを思い出した。ある時は彼の近くに多くの人々が集まって来て彼をどこかへ連れ出そうと、彼のことで大変な議論、言い争いになっているように思われた。またある時は突然部屋に一人でいて、みな立ち去って彼を恐れており、ほんの時たま彼を見ようとわずかにドアを開けると威し、互いに何かしらのことについて申し合わせて笑い彼をいらいらさせる。彼は自分の近くにナスターシャがいたことをしばしば覚えていた。他にもう一人いることに気付き、いかにも彼の知り合い然なのだが、一体誰なのか、どうしても思い当たらず、そのことで気持ちが晴れなくて涙が出てきさえした。ある時にはもう一月くらい横になっているように思われた。また別の時には依然として同じ日であるように思われた。だがあのことについて――あのことについては彼はすっかり忘れていた。その代わり、忘れてはいけない何かしらについて忘れたことは絶えず記憶にあり、そのことを思い出すと悩んで、苦しんで、呻き、怒り狂うことになるか耐え難いひどい恐怖に襲われることになるのであった。そうなった時には彼はその場からばっと立ちあがって駆け出そうとするのだが、いつも誰かが彼を力ずくで引き止め、すると彼は再び力を失い人事不省に陥るのだった。ようやく彼はすっかり意識を取り戻した。

 それは朝10時のことだった。朝のこの時間、晴れている日には、太陽の光はいつも長い帯となって彼の右側の壁を通過し、ドア近くの隅を照らしていた。彼の寝床の脇にはナスターシャと他にもう一人立っており、彼のことを大変興味深そうにじろじろ見ていたのだが、彼の全く知らない人物であった。それはカフタンを身にまとった若者で、あごひげがあり、見たところ組合員のようであった。半分開いたドアからは家主が覗き込んでいた。ラスコーリニコフは少し身を起こした。

 「こちらは誰だい、ナスターシャ?」若者を示しながら彼は尋ねた。

 「あれ、意識が戻った!」

 「意識がお戻りになった。」組合員が応じた。彼が意識を取り戻したことを察すると、ドアの間から盗み見ていた家主はすぐにドアをそっと閉めて隠れてしまった。彼女は内気な性格で会話や説明をするのが大の苦手なのであった。年は40くらい、太って脂肪が付いており、黒い眉に黒い瞳で、肥満と怠惰から来る善良さを備え、それでいて顔立ちは大変な美人ですらあった。恥ずかしがりの程度が過ぎていたのだ。

 「あなたは・・・誰です?」彼は組合員自身に話しかけ、しつこく質問を続けた。だがその時再びドアが大きく開くと、少し屈んで、というのも背が高かったので、入ってきたのはラズミーヒンだった。

 「なんちゅう船室だ」入ると彼は大声を上げた。「おでこがぶつかりっ放しだ。これでも貸間かよ!ところでおい、ロジオン、意識が戻ったって?ついさっき大家さんから聞いたぞ。」

 「ついさっき戻ったのよ。」ナスターシャが言った。

 「意識がお戻りになったばかりです。」組合員がにこにこしてまたオウム返しに答えた。

 「ところであなたはどちら様でいらっしゃいますか?」突然ラズヒミーヒンが彼に向かって尋ねた。「僕はですね、よろしいですか、ヴラズミーヒンと言います。ラズミーヒンではありません。みなが勝手に呼んでいるような。ヴラズミーヒンと申しまして、学生で、貴族の息子です。で彼は僕の友人です。それであなたはどちら様です?」

 「私は我々の営業所で組合員をやっておりまして、商人のシェロパーエフのところから参りました。でこちらへは用件があって伺ったのです。」

 「こちらの椅子にお掛けください。」ラズミーヒン自身は小さなテーブルを挟んだもう一方の椅子に腰掛けた。「ほんとにお前、ロジオン、意識が戻ってよかったよ。」彼はラスコーリニコフに向かって話し続けた。「ほとんど飲まず食わずで4日目だったんだぞ。本当に小さじでお茶をあげてたんだからな。お前のとこに2回ゾーシモフを連れてきたんだ。ゾーシモフ覚えてるか?お前のことを慎重に診察するとすぐこう言ったんだ。全然大したことない、どうかしてくらっときちまったかなって。神経に関するつまらん何かしら、食事の悪さ、それにビールとわさびをほとんど出してもらっていないこと、これらが病気の原因だと。でもそれも大したことない、今に何もかもよくなるってさ。大したもんだゾシーモフは!立派に治療を始めなすった。さて、その、僕はあなたをお引き留めしているわけではないんですよ。」彼は再び組合員に話しかけた。「あなたのご用件を説明していただけますか?覚えておけよ、ロージャ、彼らの事務所から人が来るのはもう2回目で、ついこの前来たのはこの方ではなく別の方で、俺はその人と話をしたんだ。あなたの前にここへ来た方はどなたでしたか?」

 「きっとそれは一昨日のことでございます。間違いございません。それはアレクセイ・セミョーノヴィチでして、やはり私どもの事務所の者でございます。」

 「ところで彼はあなたよりいくらか物分かりが良さそうですが、どう思われます?」

 「そうでございますね、彼の方がいくらかしっかりしているような気がいたします。」

 「なるほど。さっお続けください。」

 「で、そうアファーナーシー・イヴァーノヴィチ・ワフルーシン様を介して、その方については再三お聞きになっていると思いますが、あなたのお母さまの頼みで、我々の事務所からあなたに小切手を届けに参ったのでございます。」組合員はラスコーリニコフに直接話し掛け始めた。「もしもあなたがもうちゃんと理解できる状態でいらっしゃるなら、35ルーブルをあなたにお渡しいたします。セミョーン・セミョーノヴィチがアファーナーシー・イヴァーノヴィチから、あなたのお母さまの頼みにより、こうしたことに関する以前のやり方に従って通知を受け取っておりますので。ご存知でいらっしゃいますか?」

 「ええ・・・覚えています・・・ワフルーシン・・・」ラスコーリニコフは考え込みながら言った。

 「聞きましたか、商人のワフルーシンを知っているんですよ!」ラズミーヒンは叫んだ。「これでどうしてちゃんと理解できない状態にあるなんて言えますか?もっとも、今言っておきますけど、あなたもやはり物わかりの良い人ですね。いやいや!利発な話は聞いていても気持ちがいいもんですよ。」

 「それはまさしくそのワフルーシン、アファーナーシー・イヴァーノヴィチ様でございまして、あなたのお母さまの頼みによってですね、彼女はあの方を通じて同様のやり方ですでにあなたに一度送っているんですけども、あの方は今回も断るようなことはせず、自分の住んでいるところから数日前セミョーン・セミョーノヴィチにあなたに35ルーブルを手渡すよう通知したのでございます。良き未来を期待しつつ。」

 「うん、“良き未来を期待しつつ”というのはあなたの最高傑作ですね。“あなたのお母さま”という辺りも悪くなかったですよ。さあ、それではあなたの考えでは、彼は完全に意識が戻っているか、それとも完全ではないか、どちらでしょう?」

 「私の考えでは仕方ないというところでございます。ただサインについては必要でございまして。」

 「ちゃちゃっと書きますよ!帳簿を持ってたりします?」

 「帳簿でございますね。これでございます。」

 「どうぞここに。さあ、ロージャ、立てよ。俺が支えてやる。さっさとラスコーリニコフとサインしてやれよ。ペンを持って。なぜってお前、俺たちには今金はシロップより甘いものだろ。」

 「要らない。」ラスコーリニコフはペンを払いのけながら言った。

 「どうしていらないんだ?」

 「サインはしない。」

 「ちぇっ、くそっ、サインなしで一体どうしろっていうんだ?」

 「要らないんだ・・・金は・・・」

 「金が要らないだと!そりゃロジオン、口からでまかせを言ってるってもんだ。俺が証人だ!どうぞご心配なさらず、これは彼がただなんとなく・・・またどっかに行っちゃってるんですよ。彼にはこういうことが、夢ではなく現実に起こりまして・・・。あなたは分別のある方だ、ここは一つ我々で彼を導いてやりましょう。つまり何のことはない彼の手を動かしてやって、彼にサインしてもらおうと。ちょいとやってください・・・。」

 「ですが、私は別の機会に訪れることにいたします。」

 「だめです、だめです。一体どうしてあなたが臆する必要があるんですか。あなたは分別のある人間だ・・・。おい、ロージャ、お客さんを引き留めるなよ・・・。ほら、待ってるぞ。」すると彼は真剣にラスコーリニコフの手を動かそうと覚悟を決めた。

 「やめろよ、自分でやる。」そう言うと彼はペンを取って帳簿にサインした。組合員はお金を出して並べるといなくなった。

 「ブラボー!さて、ロージャ、食べたくないか?」

 「食べたいね。」とラスコーリニコフは答えた。

 「スープありますか?」

 「昨日のなら」と応答したナスターシャはこの間ずっとその場に立ち続けていた。

 「じゃがいもと米が入っている?」

 「じゃがいもと米が入ってますよ。」

 「何でもお見通しさ。スープを持ってきて、それにお茶も頼むよ。」

 「持って来るわね。」

 ラスコーリニコフはあらゆるものを深い驚きと鈍い漠然とした恐れをもって眺めていた。彼は自分からは口を開かずにこの先どうなるか待つことに決めた。“どうやら俺は熱病に浮かされているわけでなないようだ――彼は考えた――どうやらこれは現実のことらしい・・・”

 2分後ナスターシャはスープを持って戻ってくると、すぐお茶も出るからと告げた。スープにはスプーン2本と皿2枚それに調味料一式が添えてあった。塩入れに胡椒入れ、牛肉用のからしなどなど。こんなきちんとしたものにはもう久しくお目にかかっていなかった。テーブルクロスは清潔であった。

 「ナスタシユーシカ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナがビールを2本ばかり遣わすってのも悪くないね。我々は飲むことにしたのでございます。」

 「あんたってほんと機敏な人ね!」ナスターシャはそうつぶやくと命令を実行しに出掛けた。