「罪と罰」58(2−2)

 彼は20コペイカを片手に握り締め10歩ほど歩くとネヴァ川の方、宮殿の方に顔を向けた。空には極小さな雲っこ一つなく、水はほぼ淡青色だった。こんなことはネヴァ川ではめったにない。大寺院の円屋根が、それはこの場所から、小礼拝堂まであと20歩ほどのところの橋上から見るのが最も姿良く見えるのだが、燦々と輝き、清澄な空気越しにその装飾の一つ一つまでもがはっきりと見分けられた。鞭の痛みは止み、ラスコーリニコフは打たれたことを忘れた。一つの不安な、あまりはっきりしない考えが彼の心を今は独占していた。彼は立ったまま遠くの方を長い間じっと見つめていた。ここは彼にとって特別なじみ深い場所だった。彼が大学に通っていた時分、――専ら帰宅する際にだが――もしかすると100回ほどにもなるだろうか、他ならぬまさにこの場所に立ち止まり、実際見事なこの光景を見つめていると、毎回ある不明瞭で分析不能な自らの印象にほとんど驚きすら覚えるということが普通にあった。彼はこの見事な光景にいつも説明のつかない寒気を感じていた。この贅沢な絵は彼の口と耳を奪ってしまう霊気で満ちていた・・・。彼は毎回己の陰鬱で得体の知れない印象に驚くのだが、それに対する解答は、自分自身が信用できないため、未来へと先送りにしていた。それが今突然がつんと、その以前の自分の疑問、ためらいについて彼は思い出した。そのことについて今思い出したのは偶然ではない、と彼には思われた。

 一つのことが彼には奇怪にまた奇妙に思われた。それは以前のように全く同じあの場所で立ち止まり、かつてのように、まさにあのことについて今回考え、ほんのつい最近まで関心のあったそっくりそのままの以前のテーマ、絵に興味を覚えるかもしれない、とどうも実際に想像していたことである。彼にはあやうく滑稽にさえ思われてくるところだった。と同時に痛いほど胸が締め付けられた。ある深淵の底の方、足下がどうにか見えるというどこかで、今過去の一切が、かつての考えも、かつての課題も、かつてのテーマも、かつての印象も、この全光景も、彼自身も、すべて、すべてが彼には・・・彼はどこか上の方に飛び去り、すべて彼の視界から消え去って行くように思われた・・・。無意識に手が一度動いたことで彼は突然自分のこぶしの中に握り締められた20コペイカを感じた。彼は手を開きコインをじっと見つめた。そして腕を振り上げると、それを水の中に投げ捨てた。その後向き直ると自宅に向かって歩き出した。この時すべての人々、すべてのものから自分自身を自らハサミで切り分けたかのように彼には思われた。

 彼が自宅に戻った時にはすでに夕方近くだったので、合計で6時間近く歩き回っていたことになる。どこをどう歩いて戻ってきたか、彼は何も覚えていなかった。コートを脱ぐと、彼は駆り立てられた馬のように全身を震わせながらソファに横たわった。そしてコートを自分の上に掛けるや否や意識を失った・・・。

 すっかり日が暮れた時に彼が意識を取り戻したのは凄まじい叫び声のためであった。ああ、なんという叫び声だろう!こんな不自然な音を、こんな長いうなり声、叫び声、歯ぎしり、涙、殴打、罵声を彼は未だかつて聞いたことも見たこともなかった。彼はこんな残忍性を、こんな狂乱を想像することさえできなかった。恐怖に囚われつつ上体を少し起こした彼は眠っていた場所の上に座りなおした。引っ切り無しに身が強張り、苦しみが訪れた。だが取っ組み合いに叫び声そして罵声はますます激しくなっていく。そんな折、この上なく驚いたことに、彼は突然自分の家主の声を聞き取った。彼女は号泣しながら甲高い声を出して悲しみをぶちまけていた。気が急いてせわしなくまくし立てているものだから聞き分けることは不可能だったが、何かしらのことについて懇願しているのだった。――もちろんそれは打つのを止めてくれということで、それというのも彼女は階段上で容赦なく叩かれていたからである。殴打している者の声は敵意と激昂のせいであまりにも凄まじいものとなり、最早しゃがれた音にしかならなかったが、依然として殴打している者もやはり先の何かを言い続けていた。だがそれもやはり早口で不明瞭。急いて息がつまりそうになっていたためだ。突然ラスコーリニコフは木の葉のように震え出した。この声の主を認識したのだ。それはイリヤ・ペトローヴィチの声だった。イリヤ・ペトローヴィチがここで家主を叩いている!彼は彼女を蹴っ飛ばし、彼女の頭を階段に打ちつけている。――それは明らかだ。音響、叫び声、打つ音からしてそう聞こえる!これはどうしたことだ。世界が一変してしまったとでも?全ての階、全ての階段上に人だかりができ、がやがやする声、叫び声が響き、上ってきて、ノックして、ドアをどんどん叩き、どっと押しかけて来るのが聞こえた。“だが一体どうして、一体どうして、全くとんでもないことだ!”そう繰り返した彼は、自分がすっかり錯乱してしまったのだと本気で思った。だがそうではない。彼の耳にはあまりにもはっきりと聞こえている!・・だがということは、彼の元にももうすぐやって来るということだ。もしもそうであるなら。“なぜなら・・・間違いなくこのことは全部あれのせい・・・昨日の・・・ああ!”彼はかけ金を掛けて閉じこもろうとしたが、片手が上がらない・・・やはり駄目だ!恐怖が氷のように彼の魂を取り囲み、苦しめ、硬直させた。だがきっかり10分間続いたこの喧噪もとうとう徐々におさまってきた。女主人は呻いておおと叫び、イリヤ・ペトローヴィチは未だに脅して悪態をついていた・・・だがとうとう彼も静まったようだ。最早彼の声は聞こえない。“本当に行っちまったのか!ああ!”確かに女家主も立ち去って行く。依然として呻き声と泣き声を上げながら・・・と彼女の住戸のドアが閉じられた・・・と群衆も階段からそれぞれの住戸へと散って行く。――ああと大声を出し、口論し、呼び交わしている。話し声を叫び声に高めたり、ささやき声に落としたりしながら。連中の数が多かったのは間違いない。ほとんど全ての住人が詰めかけたのだ。“だがなんてことだ。こんなことが本当に起こりうるとは!にしても何のために、一体何のためにあいつはここに来たんだ!”

 ラスコーリニコフは力なくソファの上に倒れ倒れ込んだ。しかし最早眠ることはできなかった。彼は半時間ばかりあまりに苦しい、あまりに耐え難い際限なき恐怖の感覚を味わいながら横になっていた。それは未だかつて経験したことのないものであった。と突然明るい光が彼の部屋を照らし出した。ナスターシャがろうそくとスープの皿を持って入ってきたのだ。彼の方を注意深く見て寝ていないのを見て取ると、彼女はテーブルの上にろうそくを置き運んできたものを並べ始めた。それはパン、塩、皿、スプーンだった。

 「昨日から食べてないんでしょ。一日中ほっつき歩いといて、熱出して震えてるって。」

 「ナスターシャ・・・どうして家主は叩かれていたんだ?」

 彼女は注意深く彼の方を見た。

 「誰が家主を叩いていたの?」

 「ついさっき・・・半時間前に、イリヤ・ペトローヴィチ、警察署長の助手が、階段で・・・どうして彼はあんなに彼女を叩いたんだ?それに・・・何のために来たんだ?・・」

 ナスターシャは黙ってしかめっ面を作って彼を凝視した。長い事そうして見ていた。彼はこんな風に凝視され非常に不快になった。さらには恐ろしくなった。

 「ナスターシャ、何だって黙っているんだ?」仕舞に彼はおずおずと弱々しい声で言った。

 「それは血ね」ようやく彼女は静かに答えたのだが、まるで独り言を言うような具合であった。

 「血だって!・・どんな血?・・」そうつぶやいた彼は青くなって壁の方に退いた。ナスターシャは黙って彼を見続けていた。

 「誰も家主を打ってなんかないわよ」厳しい断固とした声で彼女はまた言った。彼は彼女の方を見ていたが、呼吸するのもやっとであった。

 「俺はこの耳で聞いたんだ・・・俺は眠っていなかった・・・座っていたんだ」一層おずおずと彼は言った。「俺は長い事聞いていたんだ・・・警察署長の助手がやって来て・・・階段上にみんなが押し寄せて、住戸という住戸から・・」

 「誰も来てないわよ。それはあんたの血が騒いでいるのよ。血が詰まってもう塊になってきてるなら、幻が見え始めてるってことになるわね・・・食べる気はあるのかしら?」

 彼は答えなかった。ナスターシャは相変わらず彼を見下ろして立ち、じっと彼の方を見たまま立ち去ろうとしなかった。

 「飲ませてくれよ・・・なあナスタシユーシカ」

 彼女は下に行って2分ばかりすると白い素焼きのコップに水を入れて戻ってきた。だが彼はこの先何があったかもう覚えていなかった。覚えていたのは、冷たい水を一口すするとコップから胸の上にこぼしたことだけであった。その後は人事不省に陥った。