島崎藤村 「破戒」3

 丑松は告白し新たな人生を切り開いた。猜疑心に満たされていた彼の心は急に晴れ渡った。ひょっとしたら丑松は告白したことにより内面的な変化を経験したのかもしれない。「人間は境遇により、あるいは修養により、次第に変化するには違いないが、根本的な烈しい変化は滅多にあり得ない」。ごくまれにある根本的な烈しい変化を丑松は経験したのだろうか。

 人が内面的に変わった場合、例えば今まで見ていたものが違ったふうに見えてくるということがあるようだ。今まで何気なく見ていた街並みが違って見える。漫画『家栽の人』の中ではそういう経験をした少年が最後の方に登場してくる。あの少年の変化がなぜ起きたのか、またどういう変化だったのか未だによく分かっていないが、あの少年の変化は、石嶺判事の変化と共に僕の心に深く刻まれている。さて話は僕自身のことになるが、ヘッセの「シッダールタ」という本を読み終わった時、僕の中で何かが変わったように思われたことがあった。その本では長い間僕を捉えていた問題意識がまさに僕が思っていたような形で展開されていたため深く引き込まれた。夢中になって読み通しその後家の外に出ると、秋の夜に響き渡る虫の声が僕の耳に飛び込んできた。すると今まで自分中心であった世界が虫や他の動植物と共に生きている世界のように思われてきた。そして自分が中心にいないそうした世界の豊かさを感じ、そのことに驚嘆した。だがその変化も長くは続かず、明くる日にはほぼ元の自分中心の世界に戻っていた。

 そもそも人が内面的に変わるというのはどういうことなのだろう。おそらくそれは、その人が持っている世界観、価値観なりが変化するということであり、「見方」が変わるということなのだと思う。人は様々な経験を積みながら自分の「見方」を形成していく。もしも万の経験がある「見方」を支えているのだとしたら、たった一回の何らかの経験がその人の「見方」を根本的に変えることなどほとんどないのかもしれない。