「罪と罰」77(2-6)

  だが彼女が出ていくと、すぐ彼は起き上がってドアに鉤を掛けた。そして先ほどラズミーヒンが持って来て、自分でまた閉じた服の入った包みを解くと着替え始めた。妙なのは彼が突然すっかり落ち着きを取り戻したように見えたことである。先のような狂人の戯言もなければ、ここのところ常にあったひどく怯えた様子も見られなかった。それはある奇妙にして予想だにしない平安が初めて訪れた瞬間であった。彼の動作は正確かつ明確で、そこにはしっかりとした意図が表れていた。“今日でなければ、今日でなければ!”彼はぼそぼそと独り言ちた。彼はまだ自分が弱っていることを理解していたが、極めて強い精神的緊張が、心の平静、動じない観念を彼にもたらし、活力と自信を与えていた。とはいえ道で倒れないことを期待していたのではあるが。すっかり新たな装いに身を包むと、彼はテーブルの上に置いてあった金に目を遣り、少し考えてからそれをポケットに入れた。金は25ルーブルだった。5コペイカもすべて持った。ラズミーヒンが服に使った10ルーブルのお釣りである。その後そっと鉤を外し部屋の外に出ると、階段を下って、外に向かって開け放たれている台所を覗き込んだ。ナスターシャは彼に背を向けて立ち、身を屈め主人のサモワールを燃え立たせるため吹き込んでいる。彼女の耳には何ていなかった。彼が出て行くことを一体誰が予想できただろう。1分後彼はもう通りに出ていた。

 

 8時頃であろう。日は落ちてきていた。蒸し暑さは以前のままであった。だが彼はむさぼるように臭くて埃っぽい街にかぶれた空気を吸い込んだ。軽く目まいを起こしそうになった。ある野蛮な活力がその病んで少し腫れた目に、痩せこけて黄緑色した顔面に突然輝き出した。彼はどこに行くべきか知らなかったし、そのことについて考えもしなかった。彼が分かっていたのは一つのことだけ。つまりこんなことは全て今日中に終わらせなければならない。一度で。いますぐ。そうでなければ彼は家に帰れない。なぜならそんな風にして生きたくないから。どう始末をつける?何によって片を付ける?このことについて彼はさっぱり分かっていなかったし、考えたくもなかった。彼は考えを追い払おうとした。自らを責めさいなむ考えを。彼はただ感じて、知っていた。すべて変わることが必要だということを。いずれにせよ、“どうあっても”と彼は繰り返していた。恐れを知らぬ動じぬ自信と決意を胸に。

 

 古い習慣に従い、以前散歩でよく使ったルートで、彼は真っ直ぐセンナヤ広場を目指した。センナヤ広場に着く前、石を敷きつめた道路の雑貨屋の前で、若い黒髪のオルガン奏者が立って何か非常に感傷的なロマンスをくねくねやっていた。彼は自分の前の歩道に立っている少女の伴奏をしているのだ。その娘は15歳くらいでまるで令嬢のような服装をしていた。張り広げたスカート、短外套、手袋それに炎色の羽飾りの付いた麦わら帽子を被っていた。それらはみな古くて陳腐であった。路上の安定を欠く声であったが、十分に気持ちの良い力強い声で彼女はロマンスを一生懸命歌っていた。雑貨屋から2コペイカもらえることを期待してのことであった。ラスコーリニコフは2、3人いた聞き手の横に留まり、しばらく耳を傾けると、5コペイカを取り出し少女の手に置いた。その娘は突然、最も感傷的な高い音程の所で歌を打ち切ると、まさしくちょん切ると、急にオルガン奏者に向かって“オッケー”と叫んだ。そして二人はのろのろと先へ、次の店へと歩いて行った。

 

 「路上で聞く歌はお好きですか?」突然ラスコーリニコフが一人のもう若くはない通行人に向かって声をかけた。オルガンのところで彼と並んで立っていた、暇人然とした男だ。その男はぎょっとして視線を向けると驚愕した。「僕は好きですね。」ラスコーリニコフは続けた。だがその様子はまるで路上の歌とは全く関係ないことについて話しているようであった。「僕は好きなんですよ。寒くて暗いじめじめした秋の晩にアコーディオンの伴奏で歌っているのが。絶対にじめじめしてなきゃ駄目です。その時の通行人の顔ときたらみんな青白い緑色で病的だ。なんならもっといいのが、湿った雪が降っている時、すとんと一直線に、風なしで、分かります?それを通してガス灯の明かりがきらめいている・・・」

 

 「分かりかねますね・・・失礼・・・」と男はつぶやいた。質問にも、ラスコーリニコフの妙な様子にも驚かされた男は通りの反対側に渡ってしまった。

 

 ラスコーリニコフはまっすぐ歩き出した。そしてセンナヤ広場の例の一角に出た。そこはあの時リザヴェータと話をしていた町人とかみさんが商売をしていたところだ。だが彼らはもういなかった。例の場所だと認識すると、彼は立ち止まって辺りを見回した。そして穀粉倉庫の入り口のところでぽかんと眺めていた赤いシャツを着た若者に声を掛けた。

 

 「たしか町人がこの一角で、農婦と、その奥さんと商売をしているはずなんだが、おい?」

 

 「誰もが商売してるさ。」横柄な態度でラスコーリニコフを値踏みしつつ若者が答えた。

 

 「彼の名前は何と言うんだね?」

 

 「洗礼を受けた時のように呼ばれてるさ。」

 

 「お前もザライスク出身じゃないよな?どこの県だ?」

 

 若者は再びラスコーリニコフの方を見た。

 

 「私たちのとこは、殿下、県じゃなくて郡です。出回っていたのは兄弟でして、私は家におりました。なので知らないんでございます・・・。どうか一つ大目に見てください、殿下。」

 

 「ここは飲み屋か、上の階なんだが?」

 

 「ここは旅籠屋で、ビリヤードもあるんですよ。侯爵夫人だって来るんですから・・・最高ですよ!」

 

 ラスコーリニコフは広場を横断した。向こうの角に人が群がっていた。全員百姓であった。彼は人々の顔をちらちら見つつ、最も混み合っている所に潜り込んだ。なぜだか彼は彼ら全員と話をしたい誘惑にかられた。だが百姓達は彼には目もくれず、みながみな小さな塊になって何やらそれぞれがやがや騒いでいた。彼は少しの間立ち止まって考えると右の方へ、B通りの方に向かって歩道を歩き出した。彼は広場を過ぎて横町に出た・・・。